Menu

モーツァルトを食べる その2(池田直樹)

第2回 最初のウィーンへの旅

 最初のミュンヘンへの旅(1762年1月12日~3週間)から帰った父親レオポルトは、モーツァルトの才能に確信を持ち、9月18日には一家4人でウィーンへ旅立ちます。その道中、モーツァルトはカタル(重い喉の炎症と鼻炎)に罹りましたが、回復し、10月1日にはリンツで最初の公開コンサートを開いています。当時リンツは、ザルツブルクと同じくらいの16,000人ほどが住む街でした。子どものモーツァルトは、いまでも人気の名物菓子「リンツァー・トルテ」を食べたかも知れません。作ってみましょう。実はお菓子を作るのは、人生で初めてです。

 リンツァー・トルテは、おそらく世界で一番古くから売られているお菓子で、基本は、小麦粉、アーモンドパウダー、ヘーゼルナッツ、卵、バター、粉砂糖、香料、ベーキングパウダー、赤スグリのジャム、スライスアーモンドで、上にタルト生地で格子模様をつけて焼いたお菓子のようですが、検索したら、たくさんのレシピが出て、材料も様々で迷いました。そこで複数のレシピを参考に、ちょっぴり独自のリンツァー・トルテ作ってみることにします。参考にしたレシピには、香料やベーキングパウダーを使ったものが多かったのですが、これらを使わずにシンプルに作ってみたいと思います。

リンツァー・トルテの作り方

材料:直径20cmの焼き型
バター 250g
薄力粉 250g
粉砂糖 125g(グラニュー糖をミキサーで挽きました)
ミックスナッツ150g(クルミ、カシューナッツ、アーモンド)
全卵2個
シナモンパウダー たっぷり
グローブ 一つまみ
レモン果汁+皮(おろした)
ラズベリージャム
焼き型に塗るバター

作り方
1、大きなボウルで、冷たいバターを細かく切ったものと、振るった小麦粉を、米粒大の固まりになるように、手で揉み手早く混ぜる。
2、1に粉砂糖を加え混ぜる。
3、2にジャム以外の材料も加え混ぜ、丸くまとめる。これで生地が完成。
4、生地を冷蔵庫あるいは涼しいところで30分ほど寝かす。
5、この生地の半量を焼き型に敷き、上にジャムを重ねる。
     この時、台の上にオブラートを敷いて、その上にジャムを塗るというものもありました。
     恐らく、ジャムの水分でタルトが緩むのを抑える効果なのだと想像しましたが、私は使いませんでした。
6、残った生地の半量は絞り袋を使い、縁を飾り、ジャムを塗った上面に格子状に絞り出す。
7、形を整えたら、180度に温めたオーブンで50~60分焼けば完成です。
     焼き時間は、焼き色で判断して下さい。

 これまでウィーンのお菓子といえば「ザッハー・トルテ」しか知りませんでした。これは高級ホテル「ザッハー」の名物ケーキですね。私も一度味わいました。因みにザッハー・トルテは、1832年に、クレメンス・メッテルニヒに仕える料理人フランツ・ザッハーが考案した、とありますから、1791年に没したモーツァルトの存命中には無かった贅沢なお菓子です。現在のウィーン土産の一番人気!モーツァルト・クーゲル(丸いチョコレートのお菓子)は、モーツァルトの死後100年経った頃、ザルツブルクの菓子職人が創作したチョコレート菓子だそうです。

 さあ、レオポルト憧れのウィーンに向かいます。一家はリンツから船に乗り、ドナウ川を200キロ以上下り、10月6日にウィーンに着きます。レオポルトの事前の準備でモーツァルト一家は多くの貴族から館に招かれましたが、特筆すべきは10月13日に、女帝マリア・テレジアの居城であるシェーンブルン宮殿の鏡の間で、女帝一族の前で演奏したことでしょう。演奏は気に入られ、マリア・テレジアはモーツァルトを膝に座らせ、5男の宮廷用式服までも与えたのです。この服を着た画が残されています。さらに父親レオポルトは多額の褒美金も受け取ることが出来たようです。(*1)

しかし、まだ6才のモーツァルトでしたが、リウマチ熱で体中に赤い斑点が出て、10月21日のシェーンブルン宮殿での2回目の演奏は、痛みを堪えながらだったようです。なんとも可哀そうです。レオポルトは医学的知識も持っていましたので、大麦粥、パン粥、咳を和らげるフキタンポポ茶、鎮痛効果の期待できるケシの実、さらに自作の植物の根、大横、マグネシウムを含む薬も飲ませたようです。(*1)

モーツァルト一家は、シェーンブルン宮殿のハプスブルク家の晩餐会に「招待」され、想像を絶する豪華な食事を目の当たりにしましたが、なんと、招待されていているのに「立ち見席」だったと記されています。見るだけだったとは…。気の毒に…。(*1)

また、旅の郵便馬車の中では、街道沿いの惣菜屋から手に入れた安いワインや「子牛肉の漬物」などを食べていたと…。子牛肉の漬物とはなんでしょう? 当時、子牛肉は、美味で消化が良いことから「貴族の食材」とされていましたが、売れ残りの子牛肉を塩に漬けこんでいたのだそうです。これにブイヨン、ワイン、刻んだオランダセリを加え煮込み、調味料で味を整えたものだったようです。(*1)

モーツァルト親子は、シェーンブルク宮殿での演奏だけでなく、多くの貴族邸に招かれて演奏し、どこでも喝采の拍手に包まれています。ウィーンのツィンツェンドルフ伯爵の日記には「ザルツブルクから来た貧しげな男の子は素晴らしい演奏をする。賢く、快活で、魅力ある子供である。姉は模範的な演奏をする」と書かれています。しかし、姉ナンネルが残した日記には「ヴォルフガングは身長が低く痩せていて青白く、人相も顔つきも貧相だった。音楽以外の点ではまったく子供同然だった」と書いてあります。(*2)両親も姉もしっかりした体格だったのに…。6才からの厳しい条件の旅と病気が、モーツァルトを身長も低く病弱な体質にしたのかも知れません。

そもそも、こんな小さな子どもをガタガタ道を走る郵便馬車に乗せ、ミュンヘン、ウィーンに連れて行くレオポルトの思惑はどれほどのものだったのでしょうか? 音楽の都ウィーン訪問でレオポルトが手にしたものは予想を超えたものでした。経済的にも、また名声も!!レオポルトの目的は、先ずは当面の収入を得ることであったでしょうが、心の底で狙っていたのは、隆盛を極めていたハプスブルク帝国のウィーンで、将来、モーツァルトが立派な安定した収入を得られる職を獲得することだったのです。これは、この後、ヨーロッパ各地を訪ねた旅行の目的も同様のものだったと思われます。このような記述もあります。「おそらくマリア・テレジアがモーツァルトの中に見ていたものは、要するに、めったにお目にかかることができない芸術的才能だけであって、招待の趣旨は、わが子の目と耳をそれによって楽しませてやろうという親心=見世物的気分によるものであった。レオポルトが期待していたような、未来に向かって炎を上げようとする音楽のかがり火ではなかった」(*2)

そして、レオポルトの願いが彼自身の存命中に叶うことはなかったのです。

1763年1月5日にザルツブルクに帰り着きます。3ヶ月の旅でした。因みに、当時のザル+ツブルクの人口は16,000人、ウィーンは160,000人でした。

*1 関田淳子:モーツァルトの食卓(朝日新聞出版、2010年)
*2 中野雄:モーツァルト 天才の秘密(文藝春秋、2006年)