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今、よみがえるラジオ歌謡特集

CDもテレビも無かった時代、私たちの日常生活に多くの名曲を届けてくれたのは、1925年から放送が開始されたラジオ放送でした。その放送を彩った数々の名曲たちを、今回はダウンロード商品としてご紹介します。

併せまして、ラジオ放送開始前から今日にかけての「うた」の系譜を跡づける、気鋭の洋楽文化史研究家 戸ノ下達也さんによるコラム『ラジオ放送の音楽~國民歌謡からラジオ歌謡へ~』を掲載しております。どうぞお楽しみ下さい。

著者:戸ノ下達也

1963年東京都生まれ。立命館大学産業社会学部卒。研究課題は近現代日本の社会と音楽文化の考察。
著書に『「国民歌」を唱和した時代−昭和の大衆歌謡』(吉川弘文館、2010年)、『音楽を動員せよ−統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社、2008年)、『清瀬保二メモにみる戦時下音楽界の再編統合』(音楽の世界社、2001年)編著書に『日本の吹奏楽史』(青弓社、2013年)、『日本の合唱史』(青弓社、2011年)、『総力戦と音楽文化−音と声の戦争』(青弓社、2008年)など。また復刻『音楽文化新聞』(金沢文圃閣、2011年)の監修と編・解題を担当。さらに論文等のほか2012年には「生誕125年・信時潔とその系譜」のプロデュース、トウキョウ・カンタート2009コンサート「競演合唱祭からみんなの合唱へ…」の構成・台本など、「音」の再演にも注力している。洋楽文化史研究会代表幹事。2018年第5回JASRAC音楽文化賞受賞。

ラジオ放送の音楽

第1回 『國民歌謡』の誕生

なぜ「ラジオ放送の音楽」なのか

今、私たちが日常生活でごく自然に親しみ、口ずさんでいる音楽。それは多くの場合、いわゆるJ−POPやジャズ、ロック、ヒップホップなど国内外の様々なポピュラー音楽、演歌、クラシック、合唱、吹奏楽など、いわゆる西洋音楽の系譜を汲むものである。これらの音楽は、どのような変遷を経て私たちの日常に根付いてきたのであろうか。

1860年代になって、国民や軍隊の「規律化」を目的に導入された西洋音楽は、軍楽隊、唱歌、賛美歌、音楽専門教育機関たる音楽取調掛(1879年に東京音楽学校となる。現在の東京藝術大学音楽学部)など、いくつかの水脈で普及が開始された。1910年代以降になると、軍楽、唱歌、街頭演歌師のみならず、浅草オペラ、宝塚や松竹などの少女歌劇、映画、演劇など、芸術芸能領域と結びついた動きのほか、蓄音器・レコード、ラジオ放送、童謡運動に代表される雑誌メディアとの協業などを通じて、「慰安」「娯楽」「教養」としての役割も顕著となり、期待され、その裾野が徐々に拡大していく。特に、蓄音器・レコードという音声機器や、雑誌やラジオ放送などメディアの発達は、反復性、継続性、同報性、広域性などその特徴からも音楽の浸透に大きく貢献する。日本の音楽文化の広がりを考えるとき、中でもラジオ放送の果たした役割は非常に大きい。受信機さえあれば、瞬時に、同時に、いつでも、どこでも、誰でも同じ内容の放送を聴くことができるラジオは、その全国規模での同報性、速報性ゆえに情報発信や受信に有効な手段であった。私達が、CDやDVDのみならず、インターネットや携帯機器で音楽に親しんでいるように、「音」の再生にメディアや様々な媒体の果たした役割は重要であろう。

1925年のラジオ放送開始時点では、逓信省管轄の社団法人日本放送協会(以下「日本放送協会」)のみが放送を担っていて、戦後、1951年に中部日本放送と新日本放送(現・毎日放送)が初の民間ラジオ放送局として放送を開始するまでは、日本放送協会が唯一のラジオ放送局であった。日本放送協会は、逓信省所管という半ば国営放送ゆえに、その放送内容には国策が反映される限界があったが、制約の中でも独自のスタンスや方向性が練られていた。特に音楽番組は、国民の教養レベル向上を課題とした思い入れが凝縮されていた。そのひとつのあらわれが、このシリーズで言及する『國民歌謡』の系譜であった。

このシリーズでは、日本放送協会が企画して1936年に放送が開始されたラジオ番組『國民歌謡』から、『われらのうた』、『國民合唱』、戦後の『ラジオ歌謡』、そして現在の『みんなのうた』に至る「うた」の系譜を跡付け、ラジオ放送による音楽文化の歩みを再考してみたい。

ラジオ放送開始

日本のラジオ放送は、1924年11月に社団法人東京放送局、1925年1月に社団法人名古屋放送局、1925年2月に社団法人大阪放送局がそれぞれ設立され、1925年7月から12月にかけて、順次地域ごとに本放送が開始された。

ラジオ放送は、放送開始当初から一貫して「教養」面から音楽=西洋音楽を重視した。例えば、1925年3月1日の東京放送局からの試験放送初日の番組は、《君が代》《天使の夢》などの管弦楽演奏、《椿姫》《蝶々夫人》などオペラのアリアが放送されていて、洋楽が番組としてまたテーマとして重視されていたことが見て取れる。まだ西洋音楽の受容が一般的ではなかった1920年代にあって、また聴取者から批判が寄せられてもなお、西洋音楽を放送番組の中で重視したのは、日本放送協会が、放送による国民の「教養」レベルの向上を志向していたからにほかならない。このような放送開始当初の状況は次の記述からもうかがうことができる。

「東京の初代放送部長服部愿夫は、洋楽が将来の日本音楽を建設する上に不可欠であるとの考えをもっていたし、また交響楽運動を守り続けなければ、音楽放送の将来は必ず行き詰るに相違ないと信じていた。そしてこの持論を音楽放送番組面に着々と実現したのである。当時一般聴取者中には洋楽愛好者は比較的少なく、また特に管弦楽形式の放送については、一般の鑑賞程度が低かったことは争えない事実であった。これらが洋楽放送の活発化に対する悪条件となり、この放送の中止を要望する投書が担当者の手許に数多く舞込み、大いにそれらの人達の気勢を殺いだものであった。しかし、わが国の文化向上のためには、この種目の生きた放送をあくまで実施しなければならないという当事者の強い、不屈の決意が聴取者の反対に次ぐ反対を乗り越えて洋楽放送番組の編成を敢行させた」(『日本放送史』237ページ)
「洋楽の演奏家たちは、通俗曲を放送で演奏しようとは思っていなかった。放送当事者も「洋楽は万人向きではないが、高尚な芸術であり、是非とも日本で盛んにしたい。少しは難解でも、高踏的なものをやるのがよかろう」と考えていた。当時日本に洋楽系の流行歌もなかったわけではなく、軽音楽もあったにはあったのだが、放送はそれを避けて、いきなり演奏会のレベルから始めた。まだ曲目解説をアナウンスするという考えも浮かばなかった。その頃の一般聴取者には、洋楽放送は甚だ近づきにくいものであった」(『日本放送史』239ページ)

このように、西洋音楽は一般的には違和感をもって感じられていて、後述するようにその傾向は1930年代になっても変わらなかった。しかし、放送の担い手は音楽に対する姿勢や期待を変えることはなかった。『國民歌謡』もそのスタンスから生れたのである。

ラジオ放送の広がり

東京、名古屋、大阪の三つの別法人で始まったラジオ放送は、逓信省による統一経営と全国放送網確立を目的に、1926年8月に全国統一組織として日本放送協会が発足し、一元化がはかられた。全国放送網は、1928年の昭和天皇即位大典にあわせて進められたことに見られるように、以降に顕著となる国策に連動した放送政策の展開であった。東京、名古屋、大阪の三大都市で開始されたラジオ放送は、地方放送局の設立ともあいまって社会状況の変遷とともに受容が拡大していった。東京放送局(JOAK)、大阪放送局(JOBK)、名古屋放送局(JOCK)の三局体制のときは、それぞれの放送局が独自に放送プログラムを編成していたが、1928年に、広島、熊本、仙台、札幌の各放送局が開設され、既存の三局に新設された四局を加えた七つの基幹局を結ぶ中継線が完成、さらに1934年までにこれら基幹局の管下の十八の地方放送局が開設され、全国規模の「中継」放送網が確立された。これら全国放送網の確立は、番組編成にもあらわれていた。「中央と地方、地方相互間の文化交流にもとづく機会均等化を意図する各局間の番組交換が目標とされ」、全国放送する中継番組と単独ローカル番組が再編された。

このように発信されていたラジオ放送は、その後の社会状況に連動しながら順調に普及していった。ラジオ受信機の普及率は、1927年に4.7%であったものが、34年15.5%、38年29.8%、42年48.7%に達し、44年には50.4%となりピークとなった。また聴取加入者数で見ると、1925年8月時点で約34万件であったが、1933年には約171万件に増加した。これらは放送設備の充実のほか、ラジオ受信機の進歩という側面も無視できない。

また放送の教育的利用を目的として1931年4月に開始された東京第二放送は、1933年6月からは名古屋と大阪でも第二放送が開始となり、第一放送の全国中継放送化と併行して、第二放送による社会教育としてのラジオ放送の活用も進められた。1935年4月から学校放送が第二放送で開始されることになるが、結果として第二放送では教養放送とスポーツ実況放送が二つの柱とされ、教養放送の飛躍的増加と第二放送への移行が進められた。またニュース機能の強化、実況放送の展開など、新たな番組種目の開拓もこの時期に見られた特徴である。その一方で、思想風俗統制を意識した逓信省の統制も影響していた。1931年9月の満洲事変から日中戦争、アジア・太平洋戦争に至る「戦争の時代」を迎えたラジオ放送は、その影響を直接受けることとなった。

『國民歌謡』放送の背景

ラジオ放送開始当初から重視されていた西洋音楽であったが、それはあくまで放送の発し手の意識であり、受け手の支持を得たものではなかった。日本放送協会の音楽番組は、娯楽・教養放送としての位置付けの中で慰安娯楽よりも教養面に重点が置かれ、聴取者の洋楽に対する意識昂揚を狙っていたのである。 それは1933年に実施された「第一回全国ラヂオ調査」の結果にも表れていた。それによると落語・漫談や浪花節、ラジオドラマが50%以上の聴取率であったのに対し、洋楽では歌劇や吹奏楽、管弦楽等が20%前半であり

「其嗜好率が和楽に比して遥かに低率であり特に希望に現われた実状が他の如何なる種目に比較するも消極的意見が最も優勢なること、及び二六才以上は年齢に反比例の嗜好傾向を持っている」
「慰安方面に於て和楽及び演芸・演劇は積極的聴取傾向が高いのに実際放送時間割合は却て減少の傾向を示し、洋楽の如き聴取傾向が比較的に低いものの放送時間割合の減少率が和楽及び演芸・演劇よりも少ないことなどは、一面放送プログラムに対する当事者の指導的見解を理解せしむるものがあると同時に指導精神表現の範囲、程度、方法等について検討すべき資料を提供するものと認め得る」(以上「第一回全国ラヂオ調査・抜粋」)

と総括されている。

また、1940年に放送局に寄せられた年間投書総数3万6,303件のうち、慰安放送に関するものは約半分の1万8,065件、その中で最も投書数の多いのは「講演」の4,131件であり、それに続くのが「浪花節」で2,369件と突出していた。一方、『國民歌謡』の投書は総計792件で、浪花節の三分の一に止まっている(「投書に観た昭和十五年の放送番組」『放送』1941年4月)。この状況は放送局でも十分認識されており、38年より都市・知識層・青年向け放送(洋楽、ラジオドラマ等)と、地方・一般向け放送(浪花節、講談、歌謡曲等)という慰安放送の二重化をはかることになり、浪花節に代表される既存の娯楽演芸放送が拡充される一方で、重視されたのが洋楽を中心とする音楽放送であった。

  • 酒は涙か溜息か(歌唱:SP音源)
    作詞:高橋掬太郎
    作曲:古賀政男
    編曲:古賀政男
    歌い出し:酒は涙かためいきか
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 影を慕いて(歌唱:SP音源)
    作詞:古賀政男
    作曲:古賀政男
    編曲:古賀政男
    歌い出し:まぼろしの影を慕いて
    価格:本体239円+税

    試聴できます

もっとも、1930年代初頭は、流行歌の全盛であり、《女給の唄》 《酒は涙か溜息か》(1931年)、《影を慕いて》 《走れ大地を》 (1932年)《島の娘》 《東京音頭》(1933年)、《赤城の子守唄》 《ダイナ》(1934年)、《野崎小唄》 《二人は若い》(1935年)などが代表的なヒット曲として挙げられる。これらはレコードや映画などメディアが媒体となって広く大衆に受入れられた楽曲であるが、反面で歌詞や曲の頽廃性、猥雑さ等の問題が指摘されていた。特に1936年3月の《忘れちゃイヤよ》(同年6月発売頒布禁止)の発売を契機とする所謂「ネェ小唄」の流行は、流行歌を巡る問題を一気に表面化させた。特に、1934年の出版法改正で開始された内務省によるレコード検閲は、思想・風俗統制の強化として重要である。当初は、演説レコードの統制が主であったが、1935年頃になると流行歌でも検閲処分の対象となるものが目立っていた。『國民歌謡』の背景には、このような放送政策の変化や思想・風俗統制と連動した音楽状況が大きく作用していたと考えられる。

  • 国際オリンピック派遣選手応援歌
    -走れ大地を-(歌唱:SP音源)

    作詞:斉藤龍
    作曲:山田耕筰
    編曲:山田耕筰
    歌い出し:走れ大地を力のかぎり
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • ダイナ(歌唱:SP音源)
    作詞:JOSEPH YOUNG,S.M.LEWIS
    作曲:HARRY AKST
    編曲:奥山貞吉
    歌い出し:ダイナ…月の出る頃
    価格:本体239円+税

    試聴できます


No.529 楽譜「忘れちゃいやよ」 昭和11年6月5日発行 新興音楽出版社

これらの事象からも明らかなように、西洋音楽はラジオ放送が始まっても、飛躍的に大衆の中に浸透したわけではなく、時間をかけて徐々に裾野を広げていったのである。しかも数ある音楽ジャンルの中でも高い支持を集めていたのが流行歌であったことは、大衆が音楽に求めていた役割は、「教養」ではなく「娯楽」的要素であったことを物語っている。この状況は、『國民歌謡』の放送が始まっていた1937年になっても変わらなかった。投書に占める聴取者の反応で最も高いのが「音楽演芸」に関するものであり、「一般洋楽の回数減少希望」「管弦楽を中止希望」「混声合唱及独唱等の西洋風の声楽を非難するもの等相当数に上る」(昭和13年『ラヂオ年鑑』)と指摘されていることからも、聴取者の西洋音楽に対する厳しい評価がうかがえる。

政策として音楽を活用しようとする放送側の目論見は、現実とは必ずしもリンクしていなかった。しかし、それでもなお放送の担い手は西洋音楽を「教養」面から重視していた。それは、あくまでもクラシック音楽偏重であり、流行歌やポピュラー音楽は、「退廃的」「反道徳的」として軽視、敵視していて、番組企画や構成にも顕著であった。『國民歌謡』は、このような脈絡で音楽を捉えていた日本放送協会のスタンスが番組として具現化したものであった。それは次のような指摘からも明らかである。

「大衆は深酷を好まない。明るい朗らかさを好む。そこでラジオも、所謂形式的にラジオ独自の芸術を掘りあてようとすることも一つの行き方であるが、一方内容的に、清純にして明朗な笑いなり、物語なりを与えることが慰安放送の重大な一つの役目でもあるのでこの方面の新しい開拓を始めたのである」(「AK・BK慰安放送発達抄史」『放送』1936年10月)


SP盤 歌詞カードより
(左)26486A「酒は涙か溜息か」歌:藤山一郎 昭和6年9月20日発売 日本コロムビア
(中)26748A「影を慕いて」歌:藤山一郎 昭和7年2月20日発売 日本コロムビア
(右)27826A「ダイナ」歌:中野忠晴 昭和9年4月20日発売 日本コロムビア

『國民歌謡』放送開始

1936年6月に放送が開始された『國民歌謡』は、1941年2月に『われらのうた』、さらに1942年2月には『國民合唱』と改称され、戦後は『ラジオ歌謡』として1946年5月から1962年まで継続し、その後は『みんなのうた』となって現在に至る。『國民歌謡』放送の根底には頽廃的な流行歌への嫌悪と排斥という目的があった。しかし、この趣意のもとに企画され放送された番組が、その趣意を意識しながらも、激変する社会の中で、脈々と継続し現在の『みんなのうた』に至る歴史を形成していることは、音楽文化の実像や音楽の裾野の拡大を考える上で非常に重要なことである。

1936年4月、JOBKは、番組編成会の賛同を得て『新歌謡曲』を制作し、二回にわたり放送した。これは同局文芸課長であった奥屋熊郎の発案によるもので、4月29日に《夜明けの唄》 《防人のうた》 《早春の物語》 《乙女の唄》 《心のふるさと》 《野薔薇の歌》 《希望の船》を、5月17日には、《祖国の愛》 《ヨットの唄》 《若き妻》 《娘田草船》 《若葉のハイキング》を放送した。この『新歌謡曲』という呼称は、「レコード流行歌との立脚点の相違を第一義」として試みに付された名称であったが、その目的や狙いは、『新歌謡曲』を受けて始まった『國民歌謡』も同様と考えられており、その意味では『新歌謡曲』放送開始を『國民歌謡』の原点と捉えることができる。

  • 早春の物語(歌唱:SP音源)
    作詞:深尾須磨子
    作曲:宮原禎次
    編曲:宮原禎次
    歌い出し:窓辺の風もなつかしい
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 野薔薇の歌(歌唱:SP音源)
    作詞:佐藤惣之助
    作曲:弘田龍太郎
    編曲:下総皖一
    歌い出し:ほのぼのと夜明けの野ばら
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 希望の船(歌唱:SP音源)
    作詞:佐藤惣之助
    作曲:服部良一
    編曲:服部良一
    歌い出し:都大路は海もなき
    価格:本体239円+税

    試聴できます


(左)ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 四」夜明の唄・朝露夜露 昭和11年1月16日発行 日本放送協会
(右)ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 二一」 護れわが空・娘田草船 昭和12年7月25日発行 日本放送協会

この『新歌謡曲』制定にあたり、大阪中央放送局文芸課名で出された「趣意概要」の要点は以下の三点であった。

(1) 歌詞も楽曲も清新、健康、在来の大多数の流行歌を席巻した頽廃的気分から離れること。
(2) 家庭でも高らかに、明朗に、または感激して歌い得る歌曲であること。
(3) 時代人の感覚と共鳴する愉快な歌曲であること。そして欲を言えば生活の疲労や懊悩に滲透するだけの消極的な慰楽にとどめず、明日の生活創造へ働きかける積極的な慰楽分子を努めて多く含むこと。

こうした従来にない新しい楽曲の制定・普及を、ラジオ放送を活用して推進したのが神戸又新ゆうしん日報の社会部長からJOBK開局後に放送界に転身し「創意あふれた放送を企画」した「名番組作りのアイディアマン」として数々の番組を制作した奥屋であった。

奥屋は折に触れ、流行歌の頽廃性、猥雑さを批判し、放送によって「良き流行歌の創造」と「それの全国民への指導的伝達」を主張していた。そしてこの目的にかなった楽曲、すなわち新鮮な今日の歌、或(ママ)水準を下らないだけの品性、大衆の教養レベルにあわせた単純かつ新鮮な旋律を第一義とした歌謡を、反復継続というレコードの特徴を採り入れて放送することにより、国民的歌謡を創造していくことを前面に掲げていた。奥屋をはじめとする『國民歌謡』の担い手達には、日本放送協会の東京中心という番組編成政策に対する抵抗から、反東京(反JOAK)あるいは大阪から全国へ独自性をアピールしたいという意識があったのもまた事実であろう。

この『新歌謡曲』が、そのまま『國民歌謡』へと直結していくのであった。

第2回 『國民歌謡』の世界

『國民歌謡』放送開始

『國民歌謡』は、1936年6月1日にJOBK制作の《日本よい国》からスタートし、同月15日からはJOAK制作の《》が放送された。以降原則として一週間に一曲のペースで、JOBKとJOAKが交互に制作した楽曲を毎日昼の12時台に放送した。楽曲は1941年1月放送の《めんこい仔馬》まで全205曲が放送されたが、放送だけでなく1936年11月から1941年9月発行の第78輯まで全149曲の楽譜が日本放送出版協会から発売され、ラジオ放送と楽譜出版が連動して国民への訴求を行った。

普及の工夫は放送時間の変遷にも見られた。1938年2月には、それまでの昼間から19時台に新設された〈政府の時間〉の後に変更された。放送開始当初は空いている時間帯を放送枠としていたが、ごく一部の聴取者しか聴くことのできない昼間という放送時間の問題は、放送開始直後から物議をかもしていた。放送時間変更はこうした期待に応えたもので、同時に〈政府の時間〉と組み合わせることにより、『國民歌謡』に上からの「公的な歌」という役割を担わせたと捉えられる。

『國民歌謡』の時代

『國民歌謡』が放送された時期は、日中戦争の展開と重なる。1937年7月の盧溝橋事件を契機とする日中戦争は、それまで局地的展開であった満洲事変が、中国大陸全土に戦線が拡大する全面戦争化となって泥沼化した。その戦争遂行のための国内体制構築が様々に展開する。1937年から始まった国民精神総動員運動、1937年の臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法公布、1938年5月の国家総動員法施行、1939年のノモンハン事件と続き、1940年になると奢侈品等製造販売制限規則公布、紀元二千六百年奉祝の一方で、同年10月の大政翼賛会発足に象徴される新体制運動の展開など、国民の教化・動員・統合や経済統制などが進行した。音楽でも、レコード検閲の強化、「国民歌」の量産、時局に連動した演奏活動、経済統制の強化といった面で直接の影響が顕在化した。これらの事象のうち、本稿に関連する事項として、レコード検閲と「国民歌」の量産について触れておきたい。

風俗・思想統制として1934年の出版法改正で開始された内務省警保局図書課(後に情報局に移管)によるレコード検閲は、いわゆる「ネェ小唄」の爆発的流行も相まって検閲の強化が模索されていた。その統制強化は、内務省でレコード検閲を担当していた小川近五郎の

「隙間があったら踏み込んで切る。隙間というのはチャンスである。がそのチャンスは到頭やって来た。それは支那事変であった」(小川近五郎『流行歌と世相』日本警察新聞社、1941年)

という言説からも明白なように日中戦争が契機となった。その典型が、1936年に発売されていた《忘れちゃいやよ》の発売禁止であろう。既に発売されていたレコードを発売禁止とする矛盾は、国家権力の強行姿勢を物語るものであった。しかし、内務省は、流行歌の影響力を十分に認識しており、レコード検閲も流行歌の「駆逐」を目的としたものではなく、あくまで国民情操の涵養のために流行歌を「浄化」させ温存させることを検閲の大前提としていた。レコード検閲は、日中全面戦争化後の国家による音楽統制の第一歩と考えられる。

また、小川近五郎は、《愛国行進曲》に関して言及した際に、

「「愛国行進曲」の出現によって兎も角我が国に代表的国民歌が出来たことは、実に慶ばしいことである。(中略)この「愛国行進曲」は、第一項でもちょっと述べておいたように、新時代の公的民謡(或は又公的流行歌)であることには相違ない。」(前掲『流行歌と世相』)

と述べていた。この言説を引用したのが吉本明光であり

「国民歌とは何ぞや、実はその説明に苦心しようと思ったところ、情報局でレコードの検閲をされている小川近五郎氏が非常に明快端的に国民歌の定義を下している。曰く「国民歌とは公的流行歌なり」」(吉本明光「「国民歌」を環って」『音楽之友』1941年12月号)

と解説されているように、国民の教化・動員あるいは意識昂揚をはかることを目的とした戦時期の楽曲が、「国民歌」と呼ばれるようになった。盧溝橋事件を機に、このような「国家目的に即応し国民教化動員や国策宣伝のために制定された「上から」の公的流行歌」(戸ノ下達也『「国民歌」を唱和した時代』)である「国民歌」の発表が相次いだ。

露営の歌》《海ゆかば》《愛国行進曲》という十五年戦争期を代表する楽曲がいずれも1937年に発表された。東京日日・大阪毎日新聞社主催による大陸進出賛美の「進軍の歌」公募作品の第二席に入選した藪内喜一郎の詞に古関裕而が作曲して1937年9月に発表された《露営の歌》、国民精神総動員運動強調週間の放送のテーマ曲として日本放送協会の委嘱で信時潔の作曲により1937年10月に発表された《海ゆかば》、内閣情報部の作詞・作曲公募で同年12月に発表され、レコード会社各社で様々な演奏形態のレコードが発売された《愛国行進曲》の3曲は、その後も出征兵士の見送りや隣組など日常生活やラジオ放送で盛んに活用され、戦時期を代表する「国民歌」として戦後に至るまで記憶された。

高らかな理想を掲げてスタートした『國民歌謡』が放送されていた時代は、必ずしも音楽が娯楽の主役の時代ではなかった。しかし、戦時体制の進行は、音楽が国策遂行のための手段として、また「健全」な娯楽として重用され利用されていく時代でもあった。

  • 朝(歌唱:SP音源)
    作詞:島崎藤村
    作曲:小田進吾
    編曲:仁木他喜雄
    歌い出し:朝はふたたびここにあり
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 露営の歌(歌唱:SP音源)
    作詞:藪内喜一郎
    作曲:古関裕而
    編曲:奥山貞吉
    歌い出し:勝ってくるぞと 勇ましく
    価格:本体239円+税

    試聴できます


(左)No.685 楽譜「露営の歌」昭和12年12月5日発行 新興音楽出版社
(中)楽譜「海ゆかば」昭和12年11月15日発行 教育資料会
(右)楽譜「愛國行進曲」昭和12年12月20日発行 内閣情報部

流行歌の位置付け

そもそも、健全かつ明朗な歌謡を目指した『國民歌謡』が対抗した「頽廃的気分の流行歌」とは何だったのか。流行歌を敵視し否定する視点は、クラシックこそが「高級音楽」で「個人的に愛玩された音楽が国家的な用に立つ」ものが音楽の正しい姿であるとする堀内敬三の認識に代表される。

堀内は、

「昭和初年の音楽は享楽的な浮薄な流行歌がレコード企業の自由競争に煽られて急速に全国へ播き散らされたのを以て最大の特徴とする。その一方には洋楽がラジオとレコードによって著しく普及し、高級な洋楽の持つ気高さ力強さが新興青年層に受入れられ、旧邦楽の江戸趣味的退嬰的趣味を脱した新しい日本音楽の樹立を促しつつあった」

と総括し、この「高級音楽」発展を阻害するもの、「緊張した時局にふさわしい音楽」を阻害するものは、断じて許容しなかった。つまり、満洲事変が始まっても

「国民の気分はやはり以前からの惰勢で低調を極めていた。「エロ・グロ・ナンセンス」などという言葉がよく使われたが全く当時の世態はそんなものであった」

ような状況を生み出す流行歌は「享楽的」として否定しなければならなかったのである(以上、引用は堀内敬三『新版音楽五十年史』、1977年に講談社学術文庫として再掲)。このような意識が、『國民歌謡』誕生の背景となっていたのである。

初期の『國民歌謡』

放送開始当初の『國民歌謡』は、新聞紙上や音楽雑誌などで賛否両論が渦巻いていた。これらの議論は、多くの場合高い評価と批判が錯綜しており、まさに賛否両論であった。『音楽新聞』184〜185号(1937年5月、回答者数35人)や『放送』(1937年2月号、回答者数37人)などに掲載された作曲家、演奏家、ジャーナリスト等へのアンケートからは、一定の方向性を見出すことは難しい。確かに、放送時間が不適切であること、魅力がなく面白くない、歌いにくく難しい、コンセプトが中途半端、作品により作詞・作曲・演奏者が不適当などの意見が見られた。しかし反面で、試行錯誤しながらの放送に対し、国民が皆で楽しめる楽曲の制定、作詞・作曲・演奏者の工夫についての意見が出されており、受け手の多くがこうした前向きな期待を持って『國民歌謡』を見守っていたと考えられる。それは一部に頭から無視・否定する意見がある一方で、趣旨・企画自体の総論については、概ね好意的な反応が多かったことにも関連する。ここでも既存の流行歌に代わる、健全明朗な歌曲の振興が期待されていたことが見て取れる。

この他にも『國民歌謡』をめぐる指摘は数多い。

「其の結果を考察するに、一般の情勢が賛、否両立の様である」(大塚正則「今年の音楽放送の回顧」月刊楽譜1936年12月号)

という指摘があるし、新聞紙上では、次のような否定的言説も見られた。

北原白秋は

「国民歌謡というものは、厳密な意味において、この本質と正相とが判別されてをらぬ。単に、国民に歌はしたい歌謡という意味で。国民歌謡なる題目が取り上げられていることは、国民にとって由々しき錯覚を来さしめるであろう」(「国民歌謡」報知新聞1937年4月15日)

と、詩の性格を重視した観点から論じた。また、兼常清佐は、東京日日新聞に寄せた連載「国民歌謡論」で、

「国民歌謡という名前が恐ろしい。国民歌謡専売局というお役所でもあって、うっかり近寄ろうものなら、制服の門番に「コラ!貴様何処へ行く!」と怒鳴られそうな気がする。あれは何もそんな恐ろしい名前をつけて私共をおどさなくとも、普通ありふれた学校の唱歌の一種である」(1937年5月30日)

とし

「私共は純粋なニッポン語のリードを聞きたい。国民歌謡や学校唱歌は或はその準備の一小段階かもしれないが、しかし私共は将来そんな系統のものを完全に捨てたい」(1937年6月2日)

と、声楽曲のあり方に疑問を呈していた。

このような議論が展開されていた初期の『國民歌謡』は、その本来の目的である「健全・明朗」で、いつでもどこでも誰でも高らかに歌うことができる、芸術歌曲やホームソングを志向したものが大半であった。その典型は、今日でも抒情歌として歌い継がれている《椰子の実》であろう。放送での演奏者は、1933年の第2回音楽コンクールでクラッシック界にデビューしながらも、流行歌手として活躍していた東海林太郎で、「良き流行歌」を「全国民」に伝えていくという送り手の意識をうかがうことができる。

  • 椰子の実(歌唱:SP音源)
    作詞:島崎藤村
    作曲:大中寅二
    編曲:大中寅二
    歌い出し:名も知らぬ遠き島より
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 心の子守唄(歌唱:SP音源)
    作詞:稲野静哉
    作曲:宮原禎次
    編曲:下総皖一
    歌い出し:ねむれよ 母のふところに
    価格:本体239円+税

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このような芸術歌曲・ホームソングを志向した楽曲群には、いくつかの類型があった。この時期の『國民歌謡』で最も多く見られたのが、比較的長い歌詞に音域の広い曲のついた芸術歌曲を彷彿させる雰囲気の楽曲であった。《野薔薇の歌》《我が家の唄》《心の子守唄》《むかしの仲間》《奥の細道》《旅人》などであり、この時期の『國民歌謡』の主流ともいえる。このほかには、明るく楽しい歌詞に軽快な二拍子系の長音階のメロディーのついた《春の唄》のようなもの、情緒豊かな歌詞をうたう《椰子の実》《落葉松》などのような楽曲が放送されていた。

これらの楽曲は、いずれも「誰にでも朗らかに歌える」という放送開始当初の目的にあったものであり、いくつかは戦後の『ラジオ歌謡』でリバイバルされている。いずれも、歌詞やメロディーの美しさ、親しみやすさ、覚えやすさが際立っており既存の大衆歌謡とも、またクラッシック系統の芸術歌曲とも違う、だれでも自然に口ずさめる「愛唱歌」と呼ぶにふさわしい楽曲であったといえる。

  • 春の唄(歌唱:SP音源)
    作詞:喜志邦三
    作曲:内田元
    編曲:山口正男
    歌い出し:ラララ、紅い花束車に積んで
    価格:本体239円+税

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一方で、まだ数は少ないものの、1937年1月の《国旗掲揚の歌》、同年4月の《靖国神社の歌》《招魂祭に》など、国民統合や意識高揚を目的とした楽曲も放送されていて、ラジオ放送ゆえの限界も見られたことも事実であった。そして、この傾向は1937年7月を機に、一気に広がっていくこととなる。

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第3回 日中戦争と『國民歌謡』

日中戦争下の社会状況

1937年7月の盧溝橋事件は、日中間の全面戦争となって拡大し、更にソビエト連邦との国境紛争や東南アジア地域への侵攻にも発展して泥沼化した。その戦争の変遷を概観すると、1937年12月の南京占領、1938年5月の徐州占領、同年7月の張鼓峰事件、同年10月の武漢三鎮占領、1939年5月のノモンハン事件、同年8月の独ソ不可侵条約締結と翌月のドイツ軍のポーランド侵攻、1940年9月の北部仏印進駐と日独伊三国同盟調印といった国際情勢、1938年4月の国家総動員法公布や電力国家管理、1939年の生産力拡充計画や警防団令公布、国民精神総動員強化方策の決定、同年4月の映画法や宗教団体法公布、同年七月の国民徴用令公布のほか、賃金、米穀配給、地代・家賃、小作料などの統制強化、1940年には紀元二千六百年奉祝、新体制運動の展開という国を挙げてのイベントと体制再構築がなされたほか、配給制度や隣組制度の開始、同年七月の奢侈品等製造販売制限規則公布など、国内政治・経済の総力戦体制構築とそのための国民生活の統制強化という構図が見て取れる。そしてその構図は、そのまま文化領域にも直接影響を及ぼした。

逓信省所管のラジオ放送も、このような国策や社会状況を如実に反映していた。盧溝橋事件を受けて、1937年7月に内務省から「時局ニ関スル記事取扱ニ関スル件」、同年11月に逓信省から「事変ニ伴フ放送取締ニ関スル件」が相次いで発表され、またニュース番組の強化、「特別講演」「ラジオ時局読本」など放送番組も国策宣伝や国民教化に重点を置いた構成となっていく。さらに送電制度の改善や受信機の売出し促進による聴取者拡大施策も展開された。音楽を含む慰安放送も放送統制強化の波に翻弄され様々な影響を受けることになるが、ラジオ放送開始以来、一貫して洋楽放送を重視していた日本放送協会は、この時期の試みも前向きに評価していた。それは、『日本放送史』(日本放送協会、1951年)の次の総括からもうかがえる。

(1) 管弦楽では、名曲と優秀な技能に限られ放送されるようになったこと
(2) 国民音楽の樹立が積極化したこと(「国民詩曲」というタイトルで日本俚謡の管弦楽化を試み、「現代日本の音楽」の時間を儲けて、日本の作曲家による作品放送の活発化をはかり、抒情詩曲も音楽劇によって日本を主題とした劇や物語の創作を行ったことは、そのあらわれである)
(3) 軍歌と吹奏楽が活発化したこと
(4) レコード音楽放送の増加したこと

『國民歌謡』の変化

このような時代状況は、『國民歌謡』にも直接的な影響を及ぼした。『國民歌謡』の変化を的確に捉えていたのが音楽評論家の野村光一や、久保田公平で、盧溝橋事件を契機とした『國民歌謡』の変質を指摘している。

野村は「国民歌謡の強化」(『放送』1939年7月)で

「是(引用者注・盧溝橋事件)が国民歌謡に起死回生させる絶好のチャンスを与えたのだと思う(中略)決して往時の純然たる「ホームソング」では無くて其処に国家的精神涵養のイデオロギーを発見するものとなっている」

と述べていた。

一方、久保田は「国民歌謡について」(『音楽評論』1940年11月)において

「後の政治的意途の為に音楽が用いられたというちぐはぐさが初期の国民歌謡に感じられないのは国民歌謡という意途が音楽中に消化されたからだなのだと思う(中略)国民歌謡は今までの中流家庭向きなホームソングから音楽的に一歩大衆に近づき、不消化な演説説話的内容からも一歩大衆に近づく必要がある」

という見解を示していた。久保田の考え方には時代の制約の中においてもなお『國民歌謡』という目的を追求しようとする姿勢が見て取れる。

こうした時局の変化に対応した動きでは、JOAKの安藤膺が放送の担い手の立場から「国民歌謡の理想と現実」(『放送』1940年8月)で次のように述べていた。彼は野村と同じ変化を指摘した上で、

「放送期間中及びその前後に一応唱和されるべきことはそれとして、各曲の性質上何ヵ月も何年も継続して唱和されるべきものと然らざるものとが自ら生じてくるのは当然」

であって、同時に

「国民歌謡の性格と生命の不可分の関係」

が企画の難しさでもあると主張していた。ここでの具体的な事例比較による楽曲の性格と寿命の問題は安藤独自の分析であり、『國民歌謡』を考える上で示唆に富むものである。 健全・明朗な、情操涵養を目的とした大衆のための音楽として放送が開始されてから一年余りが経過し、正念場を迎えた『國民歌謡』は、日中戦争を直接の要因として大きく方向転換し、新たに国民教化動員や統合、戦意昂揚のための役割を担った。音楽をとりまく状況を見ても、前述したレコード検閲の強化や時局と連動した楽曲の制定、経済統制の影響など、音楽の「上から」の利用や活用が顕著であり、こうした影響が『國民歌謡』にも現れていた。『國民歌謡』も指導精神に立脚した「国民歌」として再生されることにより、国民統制、思想善導を推進したのである。

楽曲に現れた戦争の影

このように、日中戦争が始まった後に放送された『國民歌謡』には、国民の教化、動員、統合、意識昂揚を目的としたものが大半となった。以下、これらの楽曲の特徴を整理したい。

第一に、女性(母、乙女)を歌ったものが挙げられる。これらは母性や、おしとやかな大和撫子像、銃後を守る女性像を歌ったものが多く、典型例として《日本婦人(やまとおみな)の歌》《愛国の花》などがある。また明治期の《婦人従軍歌》のような従軍看護婦への讃歌である《白百合》もその一類型といえる。しかし一方で《乙女の春》のような都会に憧れる乙女心を歌った楽曲なども見られ、女性を扱った楽曲が全て時局を反映していたものばかりではなかったことは留意しておきたい。

  • 白百合(歌唱:SP音源)
    作詞:西条八十
    作曲:大中寅二
    編曲:下総皖一
    歌い出し:夏は逝けども戦場に
    価格:本体239円+税

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ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 三十六」 新鐡道唱歌(直江津−金沢) 白百合 昭和13年10月31日発行 日本放送協会

第二に、国家イベントのための楽曲が挙げられる。スポーツイベントへの関わるとしては、1936年のベルリンオリンピックの際に応援歌《走れ大地を》《あげよ日の丸》が放送されたが、国民体育大会のための楽曲である《くろがねの力》《明治神宮国民体育大会の歌》が放送された。また紀元二千六百年奉祝では、紀元二千六百年奉祝会と日本放送協会が制定した奉祝国民歌《紀元二千六百年》や、《紀元二千六百年頌歌》放送のほか、「紀元二千六百年記念放送用作品募集」で公募された『國民歌謡』として《誓い》《母の背は》など4曲が放送された。また、紀元二千六百年奉祝のため1940年5月の満洲国皇帝溥儀の訪日に際して放送された《満洲国皇帝陛下奉迎国民歌》や《新政讃頌》には、傀儡国家・満洲国の正当化と国民意識の高揚という意図が見て取れる。これらはいずれも国威発揚や国民教化を目的としたイベントであり、そのイベントを盛り立てる方策として『國民歌謡』にプロパガンダ効果を期待した動きといえる。

第三に、皇国・皇軍賛美の楽曲が挙げられる。ここには、日本という「皇国」の讃歌、日中戦線に直接関わる「支那事変」賛美、軍事思想の普及・意識昂揚のための楽曲、戦死者の追悼という四つの流れが見られる。「皇国讃歌」の典型例は、《日本よい国》《愛国行進曲》のほか《大日本の歌》等に見られるし、明治期の《鉄道唱歌》の「改訂版」として、沿線の地理を歌っていた《新鉄道唱歌》のシリーズ(1937〜38年)や《航空唱歌》「東京〜大阪まで」「大阪〜新京まで」といった楽曲も該当する。一方、「支那事変」賛美の例は、《爆発点盧溝橋》《南京にあがる凱歌》《徐州陥落》《南京空爆》など戦果を誇示する楽曲や《遂げよ聖戦》《聖戦二周年を迎う》などの国民意識の昂揚を目的としたものがあげられる。さらに軍事思想の普及・意識昂揚の例は、《愛馬進軍歌》《太平洋行進曲》《出征兵士を送る歌》《空の勇士》《暁に祈る》《燃ゆる大空》など既にレコード発売されたり「国民歌」として公募されたお馴染みの楽曲が該当する。そして戦死者追悼は、《沈黙の凱旋の寄す》《戦友の英霊を弔う》《英霊讃歌》《嗚呼北白川宮殿下》などに見られた。これらは、国策や軍事がより密接に音楽と関わり活用した典型的な事例であり、そのニュース性、レコードや映画など他のメディアの併用、公募楽曲の流用など、従来の『國民歌謡』になかった特徴が見出せる。

第四は、国民精神総動員運動に呼応した楽曲が挙げられる。1937年11月の第2回国民精神総動員強調週間にあたり、日本放送協会が信時潔に作曲を委嘱した《海ゆかば》(当初は『国民唱歌』、のちに『國民歌謡』として放送)はその典型であろう。また国民精神作興歌として制定・放送された《國に誓ふ(国に誓う)》や《振へ日本国民》、文部省撰定の《国民精神の歌》など、国民精神動員の方策として『國民歌謡』が効果的に活用されていた。

  • 航空唱歌「東京〜大阪まで」(歌唱:SP音源)
    作詞:西条八十
    作曲:山田耕筰
    編曲:山田耕筰
    歌い出し:爆音雲に 谺して
    価格:本体239円+税

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  • 國に誓ふ(歌唱:SP音源)
    作詞:野口米次郎
    作曲:信時潔
    編曲:信時潔
    歌い出し:われら空ゆく白千鳥
    価格:本体239円+税

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(左)ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 三十七」 國に誓ふ−國民精神作興歌− 昭和13年11月5日発行 日本放送協会
(右)ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 三十三」萬歳ヒットラー・ユーゲント 航空唱歌(東京より大阪まで) 昭和13年8月30日発行 日本放送協会

第五は、戦時下の国民運動や国民生活に密着したテーマを題材にした楽曲の制定である。勤労貯蓄の歌(三部作)である《みのり》《のぞみ》《まどい》、銃後家庭強化の歌である《のぼる朝日に照る月に》《銃後の日本大丈夫》、常会の歌である《手をとり合って》(放送は1941年の『われらのうた』)のほか、《千人針》《隣組》10015636《警防団歌》《用心づくし》などが国民生活に関連した楽曲、銃後を題材とした楽曲といえる。一方、例えば音楽を積極的に活用した国民運動として、軍人援護運動が挙げられるが、『國民歌謡』においても《国民進軍歌》などの放送が見られた。また、《防空の歌》《興亜行進曲》《出せ一億の底力》《国民協和の歌》といった楽曲からは戦意昂揚、国民意識昂揚といった狙いが見られる。ここには、他にも「英霊」への讃歌や靖国神社顕彰を目的とした楽曲、スキーや登山など健全娯楽推進を目的とした楽曲、勤労を奨励する楽曲等、様々なテーマの楽曲が含まれていた。

  • みのり(歌唱:SP音源)
    作詞:川島実太郎
    作曲:成田為三
    編曲:奥山貞吉
    歌い出し:都に遠き 春なれど
    価格:本体239円+税

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  • 警防団歌(歌唱:SP音源)
    作詞:大日本警防協会
    作曲:東京音楽学校
    編曲:奥山貞吉
    歌い出し:青空に 日はさしのぼり
    価格:本体239円+税

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勤検貯蓄の歌「みのり」 昭和13年9月21日文部省検定済 昭和13年9月15日発行 貯金局(非売品)

これらの楽曲は、日本放送協会による公募や委嘱のほか、各種の撰定歌・制定歌などその誕生の背景は様々であった。日本放送協会の公募としては、JOBKによる「放送文芸」作品公募(1936年5月)と、紀元二千六百年記念の公募(1940年2月)があるし、各種の撰定歌・制定歌も、政府諸機関、陸・海軍、官製国民運動団体、メディア等が主体となって発表され、例えば1939年夏(事変2周年)の放送は、こうした軍関係の撰定歌・制定歌ばかりであったように、機会あるごとに上からの撰定歌・制定歌が活用されていた。『國民歌謡』にも「国民歌」の役割が期待され、また実際にそのような楽曲が放送されていたのであった。

もっとも、この時期にあっても、当初志向されていた方向性が全く否定されていたわけではなく、1938年5月放送の《若葉の歌》、1939年5月放送の《囀り》《潮音》、同年11月放送の《旅愁》、1940年1月放送の《かえり道の歌》、同年2月の《誓い》《若き妻》《春待草》など、時局の影響を感じさせない楽曲の発信も細々とではあれ継続されていたことは留意すべきであろう。

  • 旅愁(歌唱:SP音源)
    作詞:岩田九郎
    作曲:大中寅二
    編曲:大中寅二
    歌い出し:さすらいの路ははるけく
    価格:本体239円+税

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しかしながら、日中戦争期の『國民歌謡』は、放送メディアを活用した国策宣伝という性格が濃厚であったことは否めない。特に公募・委嘱楽曲や各種の撰定歌・制定歌の『國民歌謡』での活用は、募集主体や撰定・制定主体からの要請によるものが多かったとはいえ、ここに含まれる楽曲の約三割を占める勢力であり、「諸官庁関係選定歌、国民歌謡に制定、且放送の希望頗る多く、此の中適当と認むるものは悉く採用する方針をとった」(『昭和十六年・ラジオ年鑑』)と述べられているように。当初『國民歌謡』が目指していた方向が日中全面戦争化により変質を余儀なくされたことが見て取れる。

第4回 『國民歌謡』の位置付け

『國民歌謡』の評価

このように時代の荒波の中で放送された『國民歌謡』は、どのように受けとめられていたのであろうか。以下、聞き手の反応を見てみよう。

初期の楽曲については特に《朝》に対する賛否両面の意見が目立つ。まず指摘されたのが歌詞の問題で、古典的な定型詩を『國民歌謡』に流用する是非が問われた。《朝》については奥屋熊郎も

「《朝》の如きは少なくとも歌詞に関する限り私共の提唱しようとする国民歌謡の範疇外に属する(中略)老巧典雅な表現が今日の大衆に呼びかけるに適当であるか否かに私はこの点に大きな疑問をもつものである」(「「国民歌謡」の創造運動」『放送』1936年7月)

と否定的に捉えているが、既に「詩」として発表された作品を『國民歌謡』の題材にすることの問題は、この他にも白鳥省吾が《椰子の実》について国民生活との乖離として批判していた。さらに新聞紙上でも北原白秋や兼常清佐らがこの問題を取り上げており、北原は詩の創作意図や性格を無視した『國民歌謡』のあり様を次のように痛烈に批判している。

「JOBKやJOAKで毎週発表せられるところの國民歌謡といふものは、厳密な意味において、この本質と正相とが判別されてをらぬ。単に、國民に歌はしたい歌謡といふ意味で、國民歌謡なる題目が取上げられることは、國民にとって由々しき錯覚を来さしめるであろう。」(「國民歌謡1」『報知新聞』1937年4月15日)

「本格の純粋詩篇や小唄を取り上げて、曲化され、これに國民歌謡と銘打って発表されるものがある。これ等はむしろ藝術歌謡とか新歌謡とか称すべきであって、なまじ國民なる冠詞がある故、衆人の錯誤を来すのである。たとへば藤村の『椰子の実』有明の『蠣の殻なる』(引用者注 曲名《牡蠣の殻》)白秋の『落葉松』(引用者注 曲名《落葉松》)などは、本来國民歌謡として書かれたものではない。詩人自身の第一義の詩であって、当初から歌謡体としても製作されていない。これ等を作曲して國民歌謡であり得るといふことは不審である。」(「國民歌謡3」『報知新聞』1937年4月17日)

これは『國民歌謡』の本質を問うものとして注目すべき問題提起である。

その一方で《山は呼ぶ、野は呼ぶ、海は呼ぶ》《國に誓ふ》《白百合》《新鉄道唱歌》などは好意的に捉えられており、放送側でもその結果を当然のように認識していた。こうした楽曲は歌いやすさ、親しみやすさがその要因と分析されているが、それと同時に、特に後の三曲に対する「国民歌謡の進むべき新しき路を示すものとして成功であった」(「洋楽放送十一月」『放送』1938年12月)という高い評価は、この時期の『國民歌謡』に求められていた狙いが見て取れる。また前述した教化・動員に分類される楽曲でも、《國に誓ふ》の詩や曲に対する高い評価の一方で、《振へ日本国民》などは「成功の部類には入れ難い」(「洋楽放送二月」『放送』1939年3月)と批判されており、楽曲によってその評価は千差万別であった。

数ある『國民歌謡』の中でも特に聴取者、放送側の双方から評価が高かったのが《蚕》と《隣組》であった。《蚕》は前述した紀元二千六百年記念の公募作品の中の一曲で、銃後の守りを歌った楽曲であるが、「楽しく明るい気分を振りまいて成功した企画」(「洋楽放送四月」『放送』1940年5月)という期待以上の評価であった。これは、東宝映画のスター神田千鶴子を歌手に起用し、アコーディオン伴奏で歌うという親近感を抱かせる演出効果も無視できない。一方《隣組》は、戦後もザ・ドリフターズの「ドリフの大爆笑」の替え歌でもお馴染みであるが、当時も突出した高い評価を得た楽曲であった。歌詞も曲も良く「最も捕え難い全国民を捕らえたもの」で「全国民挙って愛唱されるべき国民歌謡」(「洋楽放送六月」『放送』1940年6月)と位置付けられていた。この楽曲については、一度聴いただけで覚えられる親しみやすい詩・曲であること、また年齢層や性別を問わず受け入れられることが成功の要因として挙げられていた。この二曲に共通する特徴としては、軽快な二拍子系の曲で楽しく聴け歌えること、誰でも歌いやすく平易であり覚えやすいこと、国民の日常生活に密着した題材をテーマとした親しみやすい内容であったことが挙げられる。

『國民歌謡』の特徴

では楽曲の創作・演奏面ではどのような特徴が見られるのであろうか。

第一に、ジャンルや世代にとらわれない作曲家の登場が挙げられる。山田耕筰や信時潔に代表される所謂クラッシックの作曲家も、中山晋平や大村能章、古関裕而、佐々木俊一といった流行歌を多く発表している作曲家、また東京音楽学校、陸軍軍楽隊や海軍軍楽隊、さらにJOAKの局員や公募入選者なども作曲者に名を連ねており、当時の作曲界総動員という幅広い顔ぶれであった。本来ならレコード会社の専属制度が壁となって、決まった組み合わせによる楽曲創作とレコード発売しかできなかったが、『國民歌謡』は、日本放送協会のラジオ放送企画であるがゆえにこうした制約が克服された。

第二に、演奏家の動員とアマチュア合唱団の登用という演奏者の門戸開放が挙げられる。レコード歌謡では、特にアジア・太平洋戦争期になると多くのクラッシックの演奏家が移動音楽・挺身活動で「国民歌」に取り組む。しかし『國民歌謡』では、時としてその組み合わせが批判されることもあったが、楽曲の性格にあわせて演奏者や演奏形態が工夫されていた。そこでもジャンルや専属制度にとらわれない、幅広い演奏者の登用が見られた。常連の奥田良三や四家文子、内田栄一といった声楽家のほか、徳山璉、東海林太郎、藤山一郎など大衆歌謡の担い手連もマイクの前に立っていた。さらに1938年以降になると学生合唱団やアマチュア合唱団の演奏も多くなり、プロやアマチュアにとらわれない演奏者層の拡大が特徴となっていた。演奏家の動員は、内閣情報部選定の《愛国行進曲》でもレコード各社が様々な演奏形態でのレコードを発売した事例があるが、それとて専属制度の壁は払拭されることはなかったことを見ても、『國民歌謡』の特異性が見て取れる。

  • 愛國行進曲(歌唱:SP音源)
    作詞:森川幸雄
    作曲:瀬戸口藤吉
    編曲:山田耕筰
    歌い出し:見よ東海の空あけて
    価格:本体239円+税

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(左)「愛國行進曲」内閣情報部選定(文部省検定済) 昭和12年12月20日発行 内閣情報部
(右)「愛國行進曲」内閣情報部選定(週報第62号附録) 昭和12年12月22日発行 内閣情報部

第三に、楽曲様式の多様性が挙げられる。芸術歌曲的なものから、行進曲、民謡調のものまで考えられる楽曲様式は一通り作られていた。それは第一に指摘した問題と関連するが、得意分野が様々な作曲家達が自分の持ち味を発揮した成果でもあった。股旅歌謡風の作風が特徴である大村能章の《娘田草船》《戦勝の歌》、美しい旋律が特徴である大中寅二の《椰子の実》《白百合》《旅愁》などはその典型例であろう。これは『國民歌謡』を国民の様々な階層に広く浸透させていきたいという制作側、創作側の意識の表れという見方もできるのではなかろうか。

健全かつ明朗で、いつでも、どこでも、誰でも声高らかに歌えるという理想を掲げて始まった『國民歌謡』は、ラジオ放送という制約であったが故に、上からの放送政策や日中戦争の拡大という時代の制約に抗うことはできず、時代の波に翻弄された。特に日中戦争開始以降の『國民歌謡』は、時局に即応した「国民歌」が大勢を占め、上からの音楽の活用となった。しかし聴取者がラジオの娯楽放送や音楽に求めるホンネの部分は「安らぎ」であった。聴取者の反応、あるいは『ラジオ歌謡』でのリバイバルや今日まで歌い継がれている楽曲を見てみると、『國民歌謡』に対してもそうした期待が依然として高かったことがうかがわれる。特に高い支持を受けた楽曲の特徴は、まさに放送開始にあたってJOBKが掲げていた趣意にそのまま適合するような性格の楽曲であり、『國民歌謡』の目指したものが僅かではあれその実践の中で開花していたのであった。


「國民歌謡名曲集1」昭和16年7月20日発行 日本楽譜出版社

『國民歌謡』とは

『國民歌謡』は、それまでにない放送というメディアによる新たな音楽の発信であった。特に放送開始当初の『國民歌謡』は、掲げていた理想を実現すべく、あるべき姿を模索しながら楽曲を発表していた。しかし、ホームソング、愛唱歌の普及という狙いは、この連載で明らかにするように、むしろ国策協力という制約の無くなった戦後の『ラジオ歌謡』において開花していった。『國民歌謡』なくして『ラジオ歌謡』は生まれなかった。また、当初はレコード歌謡への対抗を意識し一線を画していたが、ラジオ放送直後にレコード化され発売された楽曲や、日中戦争開始後は、《愛馬進軍歌》のような既にレコード発売された楽曲を放送している事例もあり、放送とレコードというメディアの対抗と共存という、相反する面が同居していたことも付言しておきたい。

  • 愛馬進軍歌(歌唱:SP音源)
    作詞:久保井信夫
    作曲:新城正一
    編曲:奥山貞吉
    歌い出し:くにを出てから幾月ぞ
    価格:本体239円+税

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ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 四十」愛馬進軍歌(文部省検定済) ヒユッテの夜 昭和14年1月25日発行 日本放送協会

しかし、創意工夫の産物として放送された楽曲ではあっても、逓信省が所管する放送局である日本放送協会が企画・制作した日中戦争下の放送番組という現実は抗い難く、大半は戦時下という特殊な状況下でしか受け入れられない性格のものであった。それは、例えば『ラジオ歌謡』でリバイバルした楽曲や、愛唱歌・抒情歌として歌い継がれている《椰子の実》など、またいわゆる「懐メロ」としての《燃ゆる大空》《暁に祈る》等の一部の例外を除き、戦後は歌い継がれることもなく、忘却の彼方に葬り去られてしまった。敗戦を機に「断絶」した楽曲が大半であったと言っても過言ではない。しかし、それであるが故に、『國民歌謡』が、時代状況と密接な関係にあったことを改めて捉え直し、今日の視点から個々の楽曲を繙くことにより、楽曲に色濃く反映された十五年戦争下の時代相を鮮明につかむことができるのではないか。脚色のないこれらの音楽は、まさに時代の証言者であり、時代の声である。今、改めて当時の音楽から社会の実像を見つめ直すことが重要であるように思えてならない。

  • 燃ゆる大空(歌唱:SP音源)
    作詞:佐藤惣之助
    作曲:山田耕筰
    編曲:二木他喜雄
    歌い出し:燃ゆる大空  気流だ 雲だ
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 暁に祈る(歌唱:SP音源)
    作詞:野村俊夫
    作曲:古関裕而
    編曲:奥山貞吉
    歌い出し:あゝ、あの顔で、あの声で
    価格:本体239円+税

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(左)ラヂオ・テキスト「楽譜國民歌謡 六十四」燃ゆる大空 紀元二千六百年 海軍記念日の歌 昭和15年5月20日発行 日本放送協会
(右)No.1237 楽譜「暁に祈る」 昭和15年5月5日発行 新興音楽出版社

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ラジオ放送の音楽

第5回 『われらのうた』

祝い終わった、さあ働こう

紀元二千六百年奉祝に明け暮れた1940年は、文化領域が奉祝行事に動員される一方で、膠着状態となった国際情勢への対応や国内体制の再構築が急務の課題となっていた。1940年9月の北部仏印への武力進駐と日独伊三国同盟締結は、1939年に始まった第二次世界大戦とも連動して、新たな国際問題を誘発した。国内では「贅沢は敵だ」のスローガンのもと、生活必需品や食糧の切符制や配給制度が始まるなど、国民生活への統制が強化され、さらにナチスのような強力な一元的政治権力の樹立を目的とした新体制運動が展開し、1940年10月に大政翼賛会が発足した。大政翼賛会は、権力の一元化の実現には至らなかったが、隣組制度など地域末端に至る国民統制や、大政翼賛会文化部や宣伝部が文化領域を巻き込み、翼賛体制の構築を推進した。新体制運動は、政治のみならず経済や文化など様々な領域で例外なく進行した。また、この時期には国家の情報宣伝機関の強化が実施され、1940年12月に内閣情報部が改組拡充されて情報局が発足し、出版や放送などメディアの指導・取締、対外宣伝や文化工作、映画・演劇・文学・美術・音楽など様々な文化領域の統制を担うこととなった。大政翼賛会や情報局は、様々な体制一元化を推進し、情報宣伝統制を強化することにより、国民教化動員を積極的に推進していった。

このような中で、逓信省・情報局所管のラジオ放送もまた社会状況を如実に反映させられた。1941年2月から、夜間放送時刻が改正され、夜間帯の政府による放送利用が拡充され、毎日午後7時20分からのゴールデンタイムに「政府の時間」が設定されたが、このタイミングで同時に『われらのうた』も放送開始された。この政府による「上からの」放送利用の狙いは、情報局次長兼大政翼賛会宣伝部長の久富達夫の次の言及からも明白である。

「大政翼賛運動に宣伝が必要であり、その宣伝にラジオ放送の欠く可らざるものであることは言うまでもない事であります(中略)我が国に於ても近時ラヂオの普及発達につれてラヂオの重大性が政府当局始め各方面で認識され、これが利用は今や国策上の重大問題となるに至りました」
「大政翼賛会としては、これまで主として講演放送によって来たのでありますが、今後は講演放送と同時に演芸催物等の放送を出来るだけ利用して大政翼賛運動の目的達成に努めなければならぬと考えて居ります」(久富達夫「大政翼賛運動と放送」『放送』1941年1・2月号)

『われらのうた』放送開始

1941年1月に放送された《めんこい仔馬》を最後に『國民歌謡』は放送を終了し、同年2月からは新しく『われらのうた』が始まった。『國民歌謡』の終了や、新たな番組への改編について詳細な背景や理由は、当時の資料からも今ひとつはっきりしない。例えば、最後の『國民歌謡』となった《めんこい仔馬》について、

「國民歌謡「めんこい子馬」は童謡風で可愛らしかった」(「反響1・2月『放送』1941年3月)

と言及されているものの、番組終了の事情などは具体的には触れられていない。それでも、放送局側の認識としては、次のような言及が見られる。

「永年の間、新しき歌謡の一指針として、廣く親しまれてきた國民歌謡は、紀元節を期として「われらのうた」と改編された。然しこの改編は在来の趣旨の否定からきたものではなく、更にその趣旨を徹底せしめるために行われたのでる。」(『ラジオ年鑑』昭和17年)

「もっとも「国民歌謡」がホームソングとしての明朗さを持ち得たのはわずか一年ほどであって、事変の進展とともに、他のレコード流行歌・映画・文芸作品あんどと同様、国策的色彩を濃くするようになった。そして昭和十六年の紀元節からはその種目名も「われらのうた」と改称され、「防空の歌」「隣組の歌」「産業報国歌」(引用者注:原文ママ。この三曲はいずれも『國民歌謡』で放送されていた。)などの時局ものが歌われた」(『日本放送史』上1965年)

これらの言及からは、膠着状態の日中戦争下にあって、紀元二千六百年奉祝や新体制運動を経て、更なる国民教化動員の強化、国策遂行体制の構築といった社会状況が放送政策にも反映され、音楽も一層その役割を期待され、担っていく状況が見て取れる。

1941年2月12日にスタートした『われらのうた』は、『國民歌謡』と異なり一定時刻に反復・継続して放送されたわけではなく、放送の曜日や時間は不定期だった。また放送された楽曲も、放送開始当初は「國民歌謡」や文部省唱歌、レコード発売されていた流行歌などが混在していたが、その後同年5月頃からは、新たに制定された「国民歌」や番組のために創作された楽曲も放送されるようになっていく。

放送された楽曲

このように社会状況が色濃く反映された『われらのうた』という番組であったが、そこで放送された楽曲には、どのような特徴があったのであろうか。

第一は、大政翼賛会の関わりである。『われらのうた』で放送された楽曲の中には、《大政翼賛の歌》《伊勢神宮にて》《アジアの力》《新穀感謝の歌》など、大政翼賛会が募集や制定に関わったものが目立つ。

《大政翼賛の歌》は、大政翼賛会が作詞・作曲を公募して制定した「国民歌」で1941年3月に発表された。同月15日に日比谷公会堂で発表演奏会が開催され、ラジオで中継放送されたほか、同日にレコード会社6社からレコード発売された。そして同月23日には「われらのうた」として放送されている。また、《伊勢神宮にて》は、同年9月5日に大政翼賛会、東京府、東京市、軍人援護会主催で開催された「北白川宮永久王殿下の御高徳を讃へ奉る会」で発表された。大政翼賛会は、このイベントのために宮家に永久王殿下御歌の御下付を願い出、同時に宮家が御歌を《伊勢神宮にて》と題して信時潔に作曲を委嘱し、イベントで発表した。「北白川宮永久王殿下の御高徳を讃へ奉る会」の模様はラジオ中継されたが、このイベントのために発表された《伊勢神宮にて》も、10月27日に「われらのうた」として放送されている。さらに《アジアの力》は、「興亜大行進曲」として大政翼賛会が主導し日本放送協会が作詞と作曲を委嘱して制定した楽曲で、1941年11月に発表され、同月18日に「われらのうた」として放送された。

これらの曲以外にも、讀賣新聞社の歌詞公募で制定された《海の進軍》や、讀賣新聞社主催・各省選定で特に陸軍省の強い後押しで「聖戦完遂国民総意の歌」として公募された《さうだその意気》なども、大政翼賛会が後援であり、いずれもレコード発売のほか1941年5月28日に『われらのうた』で放送されている。このような事実からは、発足間もない大政翼賛会が国民教化動員施策として、ラジオ放送を活用していた事実が見て取れる。


(左)および(中)「大政翼賛の歌」SPレコード 歌詞カードより
(右)「さうだその意気」SPレコード 歌詞カードより(以上、資料提供/日本コロムビア(株))

第二は、「国民歌」普及の役割である。上からの公的流行歌としての「国民歌」は、満洲事変期から発表されていたが、日中戦争期になると、特に新聞社などのメディアが自社宣伝を兼ねて大々的に企画したり、政府が後援するなどの動きが見られた。『國民歌謡』でも「国民歌」が放送されていたが、『われらのうた』でもその傾向は顕著であった。例えば、讀賣新聞社の「大日本青少年団歌『世紀の若人』」歌詞募集により1941年8月10日に発表された《世紀の若人》は、同月25日に『われらのうた』で、また1938年4月に主婦之友社の歌詞公募で発表された《婦人愛国の歌 抱いた坊やの》は1941年7月に、1940年11月にレコード発売された《月月火水木金金》は、1941年9月に、それぞれ『われらのうた』で放送されるなど、既に『われらのうた』放送以前に発表されていた「国民歌」のリバイバルなども見られた。また防空思想普及を目的として1941年10月に放送された《空襲なんぞ恐るべき》や《なんだ空襲》は、同月にレコード発売もされている。

  • 婦人愛国の歌(抱いた坊やの)(歌唱:SP音源)
    作詞:二科春子
    作曲:古関裕而
    編曲:江口夜詩
    歌い出し:抱いた坊やの ちいさい手に
    価格:本体239円+税

    試聴できます


「婦人愛国の歌 抱いた坊やの」SPレコード 歌詞カードより(以上、資料提供/日本コロムビア(株))

第三は、制約の中ではあれ、ラジオ放送独自の取り組みによる音楽の発信もなされていた。1941年7月には、五夜にわたり日本放送合唱団の演奏で「盆踊唄をたづねて」が放送されたが、「投書から見ると必ずしも好評ではなかった様である。折角の素朴な盆踊の味が失われ、洋風化して歌われた事を惜しむというのである」と指摘されていた。しかしこのような既存の、地域に根付いた歌を取り上げることは、新たな健全な歌を与えるという『國民歌謡』とは違い、民衆の中に生きる音楽にも目を向けようとした姿勢のあらわれと考えることができる。また、新たに創作されてラジオ放送された楽曲が『われらのうた』として再度放送されている事例もあった。1941年9月に放送された「新作合唱曲」では、《朝だ元気で》と《僕等の団結》が発表演奏されているが、この二曲は、同年10月25日に『われらのうた』として再び放送されている。特に、《我等の団結》は、後に『國民合唱』でも放送されたほか、戦後の労働運動でも取り上げられているように、戦時期から戦後に継続して愛唱された数少ない楽曲であった。

『われらのうた』とは

このように放送された『われらのうた』であったが、放送側の意識や聴取者の受け止め方は、今ひとつはっきりしない。それでも数少ない反応として「「われらのうた」ですが、合唱や独唱ばかりでつまりません。以前の国民歌謡のように指導放送にしてください」という聴取者の声に対し「歌唱指導の放送も計画はしております」という記載が見られた(『放送』1941年11月)。ここには、『國民歌謡』『われらのうた』と継続した放送番組に期待されたものが、流行歌でもなく、また日本放送協会が放送開始以来一貫して洋楽放送の狙いとしていた音楽による国民の教養レベルの向上でもなく、時代に即応した音楽による意識の昂揚といった側面が重視されていた事実がみてとれる。

このように盧溝橋事件以降の『國民歌謡』にも見られた「国民歌」による教化動員や国策宣伝という役割は、『われらのうた』にも継続していた。さらに『われらのうた』では、大政翼賛会や情報局など上からの直接の統制や意識が色濃く反映されていた。もっとも、『われらのうた』はラジオ放送のみで、『國民歌謡』のような放送主体による楽譜出版も無く、またその反響や楽曲の紹介がなされることもほとんど無かった。そして1941年12月の日米開戦で放送が中断したまま再開されることは無く、1942年2月から新しく『國民合唱』の放送が開始された。

第6回 『國民合唱』の時代

『國民合唱』の始まった時代

1942年2月から1945年8月まで継続した『國民合唱』が放送された時代は、まさにアジア・太平洋戦争の時代と一致する。1941年12月8日の真珠湾攻撃を発端とするアジア・太平洋戦争は、それまで中国大陸で展開し膠着状態に陥っていた日中戦争が、南方での資源獲得という目論みとの相俟って一気に東アジア地域に拡大する決定的な契機となった。

真珠湾攻撃から、1942年1月のマニラ占領、同年2月のシンガポール占領、同年3月のヤンゴン占領とジャワのオランダ軍降伏と続く日本軍のアジア地域での破竹の勢いだった戦局の展開は、戦略的攻勢の時期と位置付けられる。もっとも同年6月のミッドウェー海戦での敗北と、8月のアメリカ軍ガダルカナル島上陸は、連合国軍が反攻に転じる決定的な転機となり、その後は日本軍の戦略的持久から絶望的抗戦へと至る。しかし開戦当初に見られた緒戦の展開は、国内でも異常な熱気となってその勝利への意識高揚がなされていた。もっともこのような状況にあっても、1941年12月の言論出版集会結社等臨時措置法や1942年5月の企業整備令と金融事業整備令や、配給の強化、衣料切符制の導入など国民生活への統制は、益々強化されていた。

戦勝意識の高揚は、音楽にも「攻め」の諸相としてあらわれていた。その典型が、日中戦争期から継続する「国民歌」の発表や「国民歌」による挺身活動、戦意高揚のための演奏会開催といった、教化動員や宣伝であった。その後もアジア・太平洋戦争期を通じて、新聞社や出版社、陸軍や海軍などによる「国民歌」制定が頻繁に実施され、国民の教化動員や意識昂揚の手段として音楽が活用された時代だったが、ラジオ放送でもこの社会状況が如実に反映されていたのであった。

大東亜決戦の歌》や 《ハワイ大海戦》 《シンガポール晴れの入城》
アメリカ爆撃》 《マレー沖の凱歌》 《十億の進軍》 などが、この「攻め」の象徴的な音楽といえよう。

  • 大東亜決戦の歌(歌唱:SP音源)
    作詞:伊藤豊太
    作曲:帝国海軍軍楽隊
    編曲:仁木他喜雄
    歌い出し:起つや忽ち撃滅のかちどき挙る太平洋
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • アメリカ爆撃(歌唱:SP音源)
    作詞:野村俊夫
    作曲:古関裕而
    編曲:古関裕而
    歌い出し:アメリカ本土爆撃 この日を待ちたる我等
    価格:本体239円+税

    試聴できます


(左)「大東亜決戦の歌」SPレコード 歌詞カードより
(右)「アメリカ爆撃」SPレコード 歌詞カードより(以上、資料提供/日本コロムビア(株))


(左)大阪毎日・東京日日 新聞社募集「情報局推薦歌 大東亜決戦の歌」昭和17年1月15日発行 東京日日新聞
(右)「国民合唱 第一輯」昭和17年7月15日発行 日本放送出版協会

『國民合唱』の成り立ち

真珠湾攻撃で放送が自然消滅した『われらのうた』だったが、その後継として『國民合唱』がスタートした。これは『國民歌謡』同様のスタイルで放送されたもので、1942年2月放送の《此の一戦》で始まり、1945年8月放送の《戦闘機の歌》まで九十余曲が放送された。そして放送のみならず『われらのうた』で放送された楽曲とともに、大政翼賛会や情報局による国民教化運動にも活用され、上からの国民動員の一助として機能していくのであった。これは放送開始と同時に情報局発行の「週報」に毎号楽譜(旋律譜)が掲載されたことからも理解される。掲載は1942年2月の第280号から1943年12月の第375号まで継続し、50曲が歌詞とともに紹介された。さらに1942年5月からは日本放送出版協会より、数曲ずつピアノ伴奏譜が収録された楽譜集である『國民合唱』が創刊されて1944年10月発行の第11緝まで発行され、56曲が掲載されていた。政府のプロパガンダ的なPR誌であった「週報」での楽譜掲載は、

「関係官庁の尽力がここに結実して広く大衆の手もとに送られることは嬉しいこと」で「関係官庁が今回示した大なる協力は将来かかる方向の方面の仕事に対する重要な示唆をあたえるであろう」(中山卯郎「音楽放送「国民合唱」其後」『放送研究』1942年3月所収)

と捉えられており、『國民合唱』に対する上から期待の大きさをうかがい知ることができよう。

『國民合唱』というネーミングは、JOAK音楽部長の吉田信によると宮本吉夫の発案であり、

「宮本さんの話によると、国民歌謡の「謡」というのが流行歌手の歌う「謡」というものと似通って軟弱な感じを与える。何とか剛健で、それで家庭の歌として相応しい名前はないかと頭を搾った挙げ句できたもので、合唱というのは二部三部というだけでなく時には斉唱でもいい、ともかく国民全部が歌えるということが眼目」(「対談・健全音楽の推進」『音楽之友』1943年10月所収、この対談は吉田と吉本明光によるもの)

だった。こうした狙いは当時の音楽界を巡る状況とも関連していた。『國民合唱』放送開始当時は、音楽界の一元再編組織である社団法人日本音楽文化協会(以下「音文」と略す)が発会(1941年11月)した直後であり、様々な文化領域で一元統制化が本格化していた。と同時に国民動員体制の構築と、そのための文化運動が推進され始めていた時でもあった。例えば、音文も音楽による国民運動を推進していく中で『國民合唱』を活用していたし、大日本産業報国会による文化運動とそこでの音楽の活用などは、家庭、職場等で幅広く活用できる楽曲制定・放送という『國民合唱』の狙いに合致するものであった。また1944年2月からの『職場のうた』や、1944年6月からの『みんな知ってゐるうた』といった音楽放送番組がこの時期に見られたことも国民各層への浸透を目的とした『國民合唱』の影響が想像される。

『國民合唱』の目指したもの

放送開始当初の『國民合唱』には、放送による文化創造を唱導していた上からの放送政策の担い手達の意識が反映されていた。

情報局第二部第三課長の宮本吉夫は、娯楽・慰安放送についても多々言及していた(以下、引用は宮本「現下の放送政策 " 四"」)。宮本は一貫して娯楽・慰安放送に

「文化性は固より国家性、国民性の発揮」

を主張していた。そして日米開戦以降は、

「慰安放送こそ戦争下の国民慰安、国民娯楽として国民の戦時活動の原動力たるのみならず、大東亜戦の下、文化面においても米英を撃滅せんとする雄渾なる精神の現はれ」

であるとの期待が寄せられていた。そして

「国民の士気を昂揚し、民心の躍動と、その持続力を涵養する健全明朗にして、清醇なる慰安娯楽放送」

の中で、演芸音楽放送は

「日本の行動の雄渾なるに比例し、その内容の雄大にして溌剌、しかも芳醇なる」

ものが最も好ましいと述べられていた。こうした宮本の認識は前述した

「何とか剛健でそれで家庭の歌として相応しい(中略)国民全部が歌える歌」(前掲「対談・健全音楽の推進」での吉田の認識)

としての『國民合唱』の命名と番組企画に反映されたと考えられる。

また情報局第五部第二課長の不破祐俊は、戦時下の娯楽政策の重要性を指摘していた(以下、引用は不破「戦争下の国民娯楽」『放送研究』1942年6月)。不破は

「国民の享受する娯楽として、その娯楽を通して指導性が考えられなければならない(中略)指導性を持った健全な国民娯楽が要求される」

と述べ音楽、映画、演劇、演芸等の領域で、

「日本精神に基調をおく大東亜文化を創造発展させ」、

さらに

「国民文化としての機能」

を持つことを求めていた。そして

「文化と娯楽の普遍性を図るため」

の方策として、農山漁村、工場鉱山を想定した移動文化運動の推進と、芸能界の動員による娯楽の健全化を主張していた。

これらは慰安・娯楽放送に対する上からの認識といえるが、それはそのまま放送政策にも反映されていたと考えられる。特に、宮本の認識からも明らかなように、情報局を始めとする放送政策の担い手が『國民合唱』に寄せる期待は大きかったと思われるが、後述するような、放送開始当初に見られた楽曲の特徴は、このような上からの認識が現れたものといえよう。しかし放送の担い手や音楽界の側で強調されていたのは、大衆にしみわたる、親しまれる音楽の創造であった。

勤労者あるいは大衆を意識しつつ、時代の制約の中で音楽放送のあるべき姿を模索していたのが、毎日新聞社参事からJOAK音楽部長に転身していた吉田信であった。彼は、『國民合唱』が

「勤労者の間で厚生音楽的な役割を果たしている」

ことを指摘し、さらに

「大衆層の中に愛好されている歌謡曲調や民謡調のものの中にも我々の今日の国民感情にも訴えるものがあるならば、その中から良いものを取り出しそれによって大衆の喜ぶ新しい形式の国民合唱曲を作ってそれを与えることも重要」(「放送前進の為に・座談会」『放送研究』1943年10月での発言)

と述べる。吉田の考え方には、国民教化という役割より以前に、まず大衆に受け入れられる真の「国民」の合唱曲を作るという信念が見て取れる。そこには大衆層が愛好している、流行歌の要素をも包含しながら『國民合唱』を制定するという、流行歌との共存という姿勢が見られた。 こうした考え方は他の放送関係者にも見られた(以下、「戦争下の放送文化・座談会」『放送研究』1943年7月における担当者の発言を整理した)。無論、流行歌を低俗なものと断じクラッシック音楽を至上とする声もあったが、これまで正面から語られなった流行歌を評価する動きというのはこの時期見られる特徴といえよう。JOAK企画部の中澤道夫は、合唱というスタイルを高踏的として疑問を呈し、

「大衆というものがまず放送局の国民合唱で扱っている部分に食い付く度よりも今までの歌謡曲に食い付く度の方が多い」

と結論付ける。またJOAK音楽部の中山卯郎は

「今までの歌謡曲から抜け出すという点では十分抜け出しつつあることは認められるのですが、ただチョッとした要素で決して捨ててはならない非常に大事な要素があるので、それを時局的に今後どういう風に解決していくかという問題が結局は根本の問題になる」

と指摘していた。さらにJOAK企画部の丸山鐡雄は

「(歌謡曲は)常に時代によって変わって来つつある。それを一足飛びに全部いまの国民合唱のようなものに塗り潰すのは絶対に反対だね」

と述べていた。『國民歌謡』放送開始時点とこの時点とでは流行歌を巡る環境は激変しており、単純に比較はできないにしても『國民歌謡』が流行歌排撃を背景としていたのに対し、『國民合唱』は積極的に流行歌の要素を取り入れて国民の支持を得ようとしていたことがわかる。

しかしその一方で、理想と現実との葛藤も現れていた。中山は

「国民歌謡時代よりは制約があるのですね(中略)それを取り払いたいのはやまやまなんだ」「国民合唱で詰まらないということは結局味もそっけもないということなんだろうと思うのです」

と述べていた。似たような傾向は

「もとの国民歌謡の時の方が面白い曲が多かった(中略)今は何か狭い範疇に囚われているような気がする」

という丸山の主張にも見られた。

『國民歌謡』では音楽界の反応は放送開始当初こそ議論が見られたが、その後は黙殺とでも言えるくらい触れられていない。しかし『國民合唱』の場合には、時期を問わず散見され、音楽界の意識の違いを見ることができる。

『國民合唱』を音楽雑誌で最初に取り上げたのは読売新聞社企画部長で音楽評論家でもある吉本明光であった。吉本は

「国民合唱は時期尚早であって今日現に放送されなければならぬことは一億国民が揃って歌うという企画でなければならない」(吉本「国民皆唱と国民音楽」『音楽之友』1942年6月)

とその矛盾を指摘する。この視点は以後も継続しており、前述した吉田信との対談(前掲「対談・健全音楽の推進」)では、『國民合唱』の普及を、産報等の職場組織での運動による活用を要因とし、こうした上から与えられた音楽の限界を『國民合唱』と国民生活との乖離として指摘していた。さらに音楽挺身活動が本格化する1944年段階においても

「生産戦士だけについてもかく個々に特殊事情が存在する。これを押し広げて勤労階層、国民全部となると状況は千差万別になる。それに対して単一の国民合唱を提供したのでは実情に即さぬのは当然のことである」(吉本「放送音楽「戦ふ花」に望むもの」『音楽文化』1944年3月)

とその根本的課題を指摘していた。吉本といえば時にファナティックな主張が多いなかで、こと『國民合唱』については的確かつ冷静な視点で客観的にポイントを指摘し、その矛盾と限界を突いていた。
『國民歌謡』でも積極的に発言していた久保田公平は、

「日本国民全体に歌ってもらいたい内容と日本国民全体が歌い求める音楽、そして日本国民全体が歌うことのできる歌、そうしたものを先ず把握せねばならない。誰でもがそれを聞くことによって戦う国民の正しい心を直感し、その心を昂揚させなくてはならないのである(中略)国民全体の持つ心、その意味の最大の大衆性は即ちこの必勝の心を歌うことである」(久保田「音楽放送 国民合唱」『放送研究』1943年5月)

と『國民合唱』の理想と目的を述べていた。

『國民合唱』に対する批判的な視点は津川主一や山根銀二の言説からもうかがえる(以下、引用は津川「国民的合唱運動の展開」『音楽文化』1944年3月および「決戦下創作界の新構想・楽壇決戦態勢強化緊急座談会(三)」『音楽公論』1943年10月)での山根の発言)。津川は「興味を感じさせてくれる作品だと歓迎されるが、そうでないと毎日のように同じ別に面白くもない歌曲を繰り返されると相当国民はうるさく感じる」と述べていたし、山根は『國民合唱』が

「徹底的に民衆の心を把握していない」

と批判していた。

『國民歌謡』が、頽廃的な流行歌の駆逐、レコード歌謡に代わる健全かつ明朗な、情操涵養のための歌曲の創造を目指して開始されたのに対し、『國民合唱』は、共に声を合わせて歌うことにより、家庭内での健全音楽の普及と、職場での慰安および作業効率の向上を目指した全国民的な音楽運動として開始された。何より、当初は国民大衆を先導して音楽レベルの向上を図ることを目指した『國民歌謡』に対し、『國民合唱』が国民大衆の支持を受けることを至上命題とし、流行歌に範をとったことは、『國民歌謡』との最大の相違点であった。開始当初の『國民合唱』に見られた唱歌形式への批判と、その改善策として試みられた曲調の工夫という『國民合唱』の変化は、意識的に歌いやすく親しみやすいメロディーという流行歌の長所を採り入れた結果と考えられる。とは言え『國民合唱』が「詩」を歌う「合唱」である以上、如何に曲調を工夫しても歌詞の内容が教化動員、戦意昂揚を歌ったものである限り、受け手の感情に訴える、時代を越えて歌い継がれる「歌」は『國民合唱』の中からは生まれにくかったいえよう。

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ラジオ放送の音楽

第7回 『國民合唱』の姿

楽曲の特徴

『國民合唱』の第一曲として放送されたのは《此の一戦》だったが、この楽曲は放送開始直後に痛烈な批判を受ける。《此の一戦》は、「此の一戦 何がなんでも やりぬくぞ」という大政翼賛会制定の標語に信時潔が曲を付けたものだが、カノン形式の楽曲に対し大衆が歌うことができるのかという批判や、標語を「詩」として扱う限界が指摘されていた。もっとも《此の一戦》以後、山本五十六戦死やアッツ島玉砕で戦局の悪化が顕在化する1943年5月頃までの『國民合唱』は、格式を意識した「唱歌調」のスタイルの楽曲が主流であった。この時期の最大の特徴は、このような形式で新しく制定された楽曲と、従来から愛唱されていた文部省唱歌のような楽曲(「箱根八里」「夏は来ぬ」「我は海の子」「来れや来れ」の四曲)の混在であった。誰でも知っている唱歌を加えることにより、国民に親しみやすいところで『國民合唱』を定着させたいという意識の現れとも考えられる。また新しく制定された楽曲では、「唱歌調」スタイル以外の楽曲として《今年の燕》《子を頌う》など少国民向けの楽曲を制定・放送したことは大きな変化であり、以降の『國民合唱』においても、この傾向のものが継続して発表された。ただこの他の楽曲は概ね「お題目に流れた」歌詞のものが多く、こうした限界は前述した吉田信の指摘するところとなっていた。

しかし、1943年以降になると、違った傾向が見られる。まず、同年6月の大政翼賛会が国民皆唱運動推進にあたり公募した《みたみわれ》の放送を契機として以降、楽曲募集により制定された「国民歌」といわれる曲の『國民合唱』での放送が増えてくる。政府機関では軍事保護院による《大アジア獅子吼の歌》、航空局による《大航空の歌》、情報局による《必勝歌》や《国民義勇隊の歌》などが、またメディアでは読売報知新聞社による《学徒空の進軍》、朝日新聞社公募の《ああ紅の血は燃ゆる》、さらに音文による《復仇賦》《決戦の秋は来たれり》などの楽曲が例示できる。これは国民教化・意識昂揚のための「国民歌」制定の手段として楽曲募集が多用され、その効果的普及のために『國民合唱』が活用された結果と捉えられる。

また『國民歌謡』ほどの層の厚さは無いにしても、作曲家の個性が反映された、楽曲スタイルの多様性が見られる。これは、時局の緊迫化に伴い、詩の表現や内容の制約を曲調の変化でカバーし、国民への浸透をはかろうとする姿勢と考えられる。どの楽曲の詩も戦意昂揚、教化動員を歌ったものではあるが、曲だけを取り出して見ると一様ではなく、制作者や創作者の独自性が見出されるケースもあった。例えば橋本國彦作曲の《戦ふ花》や山田耕筰作曲の《サイパン殉国の歌》などは、曲想に変化があり芸術歌曲を彷彿させる楽曲である。作曲家の柴田南雄は《サイパン殉国の歌》について、「旋律も構成も完璧だし、情緒もある」と評価している(柴田『わが音楽わが人生』(岩波書店、1995年)。一方、流行歌のような楽曲、すなわち親しみ易く覚えやすい古関裕而や佐々木俊一、高木東六の作品(例えば、古関《突撃喇叭鳴りわたる》、佐々木《大航空の歌》、高木《征くぞ空の決戦場》)、さらに《勝ち抜き太鼓》のような中山晋平の民謡調作品などには、その作曲家の色が反映されていた。しかしその反面、大中寅二のこの時期の作品は、『國民歌謡』での特徴であった抒情性、美しい旋律は影を潜め、唱歌調の格式ばった形式のものとなり、時局を意識した創作側の有様を見ることができる。以下に、いくつか特徴のある楽曲について見ておきたい。

新任早々の音楽部長である吉田信が自信を持って送りだしたのが《征くぞ空の決戦場》であった。これは「誰でもがもっと気楽に歌えるような楽しみの面を相当含んだ曲」(「対談・健全音楽の推進」)という狙いで、1943年9月の航空記念日を記念して日本放送協会が制定したものであった。その制定過程では、作詞者(海軍報道班員の井上康文)と作曲者(高木東六)による事前の打合せが持たれ、創作者の十分な連携が強調されていた。この楽曲は、高木の作曲した《空の神兵》を彷彿させるような明るく変化に富むメロディーが特徴であり、歌うことを楽しめるという吉田の意図をうかがい知ることのできる楽曲といえよう。

さらに、吉田をして「今までの国民合唱よりもっと柔らかな、生活に潤いを与えて同時に戦力増強に役立つ歌」の制定という狙いで、1944年2月に発表されたのが、前述した《戦ふ花》であった。吉本は「どうしても我々の琴線に共鳴し、高鳴る潤いのある歌でなくては戦う音楽の役目は果たせない」とこの楽曲への期待を述べていたが、橋本國彦による八分の六拍子のワルツを思わせる美しいメロディーは、こうした期待に応えた楽曲として秀逸であった(吉本「放送音楽「戦ふ花」に望むもの」)。何より「明朗且つ情緒豊かに」という表情の指示は、従来の『國民合唱』には見られなかった特異なものであった。

一方で、『國民合唱』の演奏者の中には違った見方もあった。例えば『國民歌謡』等の放送のほか、各地の歌唱指導でも活躍していた声楽家の内田栄一は、航空決戦の時代に即応し「一般的の歌で、工場でも会社でも学校でも家庭でも何処で歌われても歌う人にぴったりと来る歌」の典型例として《航空決戦の歌》を挙げていた(内田「歌唱指導の方途」(『音楽文化』1944年3月)。歌唱指導という最前線においては「その歌の歌詞の内容により、曲によって適、不適を決めなければならない」中で、万人に受け入れられる楽曲の存在というものが重視されていたといえよう。

  • 今年の燕(歌唱:SP音源)
    作詞:安藤一郎
    作曲:弘田龍太郎
    編曲:仁木他喜雄
    歌い出し:今年も村へやって来た
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 大航空の歌(歌唱:SP音源)
    作詞:西条八十
    作曲:佐々木俊一
    編曲:仁木他喜雄
    歌い出し:見よ見よ大空に荒鷲が
    価格:本体239円+税

    試聴できます




(上)「今年の燕」SPレコード 歌詞カードより
(下)「大航空の歌」SPレコード 歌詞カードより (以上、資料提供/日本コロムビア(株))


航空局企画制定「大航空の歌」昭和19年1月1日発行 大日本飛行協会

『國民合唱』の活用

『國民合唱』は、単にラジオ放送のみならず、この時期特有の国民運動との連携の中でその存在価値を高めていた。

第一は前述した国民教化、意識昂揚を目的として、様々な国民運動と連動して公募や委嘱により制定された「国民歌」の、ラジオ放送による普及である。これらの楽曲の普及手段としては、タイムリーに全国放送される『國民合唱』の活用は効果的であった。政府機関のみならず、官製国民運動団体や新聞社・出版社などのメディアを巻き込んでの国民運動に呼応した楽曲の制定・普及は、『國民合唱』無くして成り立たたなかった。

第二は国民皆唱運動との関係である。大政翼賛会や情報局が音楽界の一元統制団体だった社団法人日本音楽文化協会(音文)協力で1942年から1943年にかけて実施した全国規模の国民皆唱運動は、歌唱指導隊を全国に派遣して指定楽曲を歌唱指導するものであったが、ここでの指定楽曲は大半が本稿で採り上げた『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』だった。この国民皆唱歌曲での『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』の活用は、「国民各層の要求に対応できる選曲」というのが最大の眼目で、主催者側がこれらの楽曲を全国民的に愛唱される歌と認識し、国民各層に浸透していたと捉えられていたことが推測される。しかしこの国民皆唱運動は、歌唱指導による強制的な「国民歌」の普及を目指したものであり、その効果には実際に歌唱指導を行った演奏家からは疑問の声もあがっていた。例えば、下八川圭祐の「国民歌だけを一般は期待していない(中略)「荒城の月」、女学生の集まりの多いところでは「菩提樹」ですね、ああいうものを歌ってくれないかとおっておりました」という指摘は、こうした指定楽曲の限界を端的に示すものであった(「第一回国民皆唱運動座談会」『音楽文化新聞』49号、1943年5月)。

もっとも国民皆唱運動自体は、移動音楽運動や音楽挺身活動の重要性を喚起する結果となった。以降大政翼賛会や大日本産業報国会(産報)、音文との連携や、音文独自の企画による移動音楽、挺身活動が活発化していく。しかしながらこうした場に適する指導や演奏楽曲は、結局は『國民合唱』の類を活用せざるを得ない状況であった。例えば前述した内田栄一は、音楽挺身活動にも稜極的に関わり、そこから得た実地体験に即して歌唱指導の方法や楽曲の特徴について論じた上で、歌唱指導に適する楽曲として、(1)空機に関する曲、(2)戦意昂揚、国民の決意を表したもの、(3)皇国の栄を讃えたもの、(4)皇軍の赫々たる戦果を歌ったもの、という四つの分類で37曲を挙げていたが、このうち18曲が『國民合唱』(『國民歌謡』『われらのうた』が8曲)となっており、その影響力の強さをうかがい知ることができる(前掲内田「歌唱指導の方途」)。

第三は、厚生文化運動や産報文化運動との関連である。『國民合唱』では、産報の活動とも連動して、産業戦士や勤労者をターゲットとした文化運動における音楽の活用が顕在化していく。産報と日本放送協会の共催によりコンクール形式のアマチュア音楽大会として1941年から1943年に開催された「勤労者音楽大会」は、その最たるものであろう。そこでの合唱や吹奏楽、後にハーモニカ合奏も加わった演奏形態は、音楽による厚生文化運動の三類型とでもいえる性格のものであった。こうした運動は、職場組織を基礎としたものである故の限界や問題も指摘されてはいたが、結果として戦後に連なる合唱や吹奏楽などの受容層が拡大したことは事実であり、そこで『國民合唱』の果たした役割は無視できない。またその大会の課題曲は、当然のことながら『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』の系譜に属する楽曲であり、放送が送りだした楽曲の新たな活用形態であった。また、1944年7月から8月の「勤労昂揚皆唱運動」にあわせて制定された《いさおを胸に》の『國民合唱』での活用もその一類型として留意しておきたい。

ちなみに『國民合唱』における合唱形態は、皆が同一旋律を歌う斉唱のみならず二部あるいは三部のような合唱形態の楽曲も見られた。放送側が「合唱」形態にこだわった背景には、その時々に応じたテーマの歌詞を「合唱」することにより、受け手の側に一体感を生じさせると同時に、国民意識昂揚と教化動員の一助とする狙いがあったと推測される。実際、放送された演奏形態を見てみると80曲が合唱団(児童合唱を含む)による演奏であり、批判が噴出してもなお「合唱」というスタイルに固執し制作・放送されていたことがわかる。

『ニュース歌謡』の存在

このように限界の中で様々な工夫がなされていた『國民合唱』だが、アジア・太平洋戦争期のラジオ放送では、『國民合唱』以外にも「うた」による国民意識昂揚や国策宣伝の番組が放送されていた。

そのひとつである『ニュース歌謡』は、大きな事件が報じられた際に、日本放送協会が放送局に待機させた作詞・作曲家にその場で楽曲を創作させ、放送するもので、開戦に即応し12月8日に《宣戦布告》(野村俊夫作詞、古関裕而作曲)を放送、同月9日《皇軍の戦果輝く》(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)と《タイ国進駐》(作詞・島田磬也、作曲・山田榮一)、同月10日《長崎丸の凱歌》(作詞・島田磬也、作曲・細川潤一)《フィリピン進撃》(作詞・勝承夫、作曲・山田榮一)などが立て続けに放送された。その後1942年3月までに十数曲のニュース歌謡が放送されたが、この時期は、破竹の勢いだった日本軍の戦果に連動した題材が事欠かない時で、12月25日《香港陥落》、翌年1月《マニラ陥落》、2月《シンガポール陥落》、3月11日《蘭印降伏》などのニュース歌謡が発表された。特に12月10日に高橋掬太郎作詞、古関裕而作曲で放送された《英国東洋艦隊壊滅》などは最も広く知られたニュース歌謡のひとつであろう。これは、ラジオ放送された後さらに、古関裕而が作曲したメロディーにサトウハチローが新たに作詞をして《断じて勝つぞ》としてレコード発売されたことや、オリジナル作品が戦後になってレコーディングされたことも記憶に残る要因であったのかもしれない。

  • 英国東洋艦隊壊滅(歌唱:SP音源)
    作詞:高橋掬太郎
    作曲:古関裕而
    編曲:古関裕而
    歌い出し:滅びたり滅びたり
    価格:本体239円+税

    試聴できます

『ニュース歌謡』は、あくまでも「ニュースに取材せる歌謡」であり「漠然とした時局や抽象的な一般時事を対象とするものではなく、飽迄も特定の具体的な事件を取扱ったもの」(丸山鐡雄「ニュース歌謡と放送」『放送』1942年11月)と考えられていた。即時性、広域性をもった媒体であるラジオ放送は、このようにその時々に起きた事象をいかに早く伝播させていくかが重要な役割であったが、ニュースに音楽を取り入れた最大の理由は「直接大衆の心理に刻印を与える様な特定の事件に取材するものに於ては雰囲気というものが如何に重要であるかは右によっても明らかであろう」(前掲丸山「ニュース歌謡と放送」)と整理されていることからも見えてくる。まさに日本軍の攻勢に乗じた士気昂揚を目論んだ音楽の利用であった。それは「赫々たる皇軍の戦果に應へて、クワンタン沖開戦、又は香港、マニラ、シンガポール陥落の折々に、その感激をニュース歌謡として放送された。そしてニュース歌謡としての使命を生かす為には、作詞者も作曲者も歌手も亦当事者も、普通の放送とは違う色々な制限をうけたにも拘らず、よくその使命を果たすと共に、かの「英国東洋艦隊撃滅」の如く、一つの歌曲としても傑れたものを産み出したことは特筆に価しよう」(「大東亜戦争と放送 軍国歌謡」『昭和十八年 ラジオ年鑑』日本放送出版協会、1943年)と評価された。しかし「ニュース歌謡は、このようにニュースに取材した歌謡で、「隣組の歌」のような時局歌謡とは違い、また国策宣伝歌謡でもなかったので、「出せ一億の底力」のような命令的・号令的用語を必要としなかった。しかし、戦争が長期戦となり、主題となるようなニュース歌が乏しくなるにつれて消滅し、一般の軍国歌謡の中に吸収された」のであった(日本放送協会放送史編修室編『日本放送史・上』日本放送協会出版、1965年)。日本軍の攻勢を反映した一時的な音楽の活用であったことはその番組の盛衰からも明白である。

このようなラジオ放送による戦意昂揚への取り組みは、例えば1942年2月のシンガポール陥落の時期にも見られ、当初予定されていた音楽番組の内容を変更し、戦勝気運を高揚していた。

『職場のうた』

ラジオ放送は、1943年11月に番組変更が実施された。この変更は、慰安放送のターゲットを勤労者に絞り、その聴取傾向にあわせて番組構成や放送時間を変更するという、聴取者の動向を優先した改編であった。この時期は、後述するように、日本軍の戦略的守勢という社会状況を危機意識として煽り立てるような状況下にあって、一層国内の戦力増強が至上命題となっていた。そうした背景のもとに進められたのがこの改編であり、1944年2月から放送が始まった番組が『職場のうた』で、挙国石炭確保激励週間を契機に「全面的な生産増強のための放送へ移ってゆきます」「時に重点産業の工場、鉱山、造船所を全国各地より選択し(中略)それらの場所に働く人々へ激励慰問の番組が送られます。このため昼間の合唱もハッキリと職場向けのものに変ります」(「放送予告」『放送』1944年2月)と宣言されていた。このような放送政策と連動して始まった「職場の歌」は、放送開始後は『放送』誌上でも、1944年4月の《作業服》に始まり《増産進軍歌》《轟沈》《日本晴れだどこまでも》と続き、同年八月の《いさをを胸に》まで旋律譜と歌詞が掲載され、周知がはかられた。その後、放送された楽曲は、《大日本帝国在郷軍人会会歌》《嗚呼神風特別攻撃隊》《特幹の歌》《挺身乙女》《希望の職場》(1944年9月)《国に捧げて》(自12月5日、至12月9日)《夕陽に月に》《朝空の歌》《朝夕の銘》などがあげられる。こうして放送された『職場の歌』は、「職場の慰問を兼ね、重要工場から現場中継されることもあったが、その内容は「國民合唱」と同様、しだいに軍国調のものが多くなり、1945年3月ごろには「一億体当たりの歌」「一億特攻隊の歌」「米英撃滅節」などがうたわれている」(日本放送協会放送史編修室編『日本放送史・上』日本放送協会出版、1965年)こととなった。

ちなみに1944年6月からは『みんな知っているうた』という番組も放送開始となっている。これは、《燃ゆる大空》《若鷲の歌》《ラバウル海軍航空隊》《加藤部隊歌》《勝利の日まで》、9月の放送では《暁に祈る》《空の父空の兄》《学徒空の進軍》《勇敢なる水兵》《燃ゆる大空》《遂げよ聖戦》が演奏されている。この番組は、『國民合唱』や『職場のうた』とは異なり、既にレコード等で聴取者にもなじみのある楽曲のみで構成された番組で、教化動員や国策協力を促すものではあっても、どちらかといえば流行歌の要素を兼ね備えた楽曲を主体としたより娯楽性を追及したものであった。緩急を使い分けた放送局側の認識を垣間見ることができる。

これらの楽曲は、社会状況を如実に反映したテーマを素材としたものであり、この時期特有の「国民歌」といえる性格のものであった。しかし、音楽愛好者ではなく勤労者層をターゲットとした番組の中で、「うた」が活用されていたことは重要である。この時期の音楽界は前述したように、挺身活動や国策に連動した演奏会が主体だった。このような状況にあって、事業所や工場等での挺身活動やサークル活動としての勤労者文化運動の展開は、戦時期特有の文化運動という限界があったにせよ、戦後の職場や社会人の音楽活動に継続していくものであり、このような勤労者層が音楽に親しむ機会としてラジオ放送が存在していたことも事実である。例えば戦後に本格化する職場や社会人の合唱や吹奏楽など、アマチュアを主体とする音楽の裾野の広がりは、戦時期に育まれた音楽文化の萌芽が開花したものとして捉えるべきではなかろうか。

おわりに

『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』、そして『職場のうた』『みんな知っているうた』という一連の「電波に乗った歌声」は、従来見られなかったラジオ放送という音声メディアによる新たな音楽の活用であった。特に放送開始当初の『國民歌謡』は、その掲げていた理想を実現すべく、あるべき姿を模索しながら楽曲の制定・放送を行っていた。こうしたホームソング、愛唱歌の制定・普及という狙いは、むしろ戦後の国策協力という制約の無くなった『ラジオ歌謡』において開花していった。『國民歌謡』なくして『ラジオ歌謡』は生まれなかった。また当初は流行歌への対抗を意識し一線を画していたが、ラジオ放送直後にレコード化され発売されている楽曲もあり、放送とレコードというメディアの対抗と共存という相反する面が同居していた。何より戦時体制が破綻しつつあったアジア・太平洋戦争末期の段階で、流行歌を取り上げた『みんな知っているうた』という番組が放送されていたことは象徴的である。

盧溝橋事件後の『國民歌謡』、そしてそれに続く『われらのうた』『國民合唱』、そして『職場の歌』は、慰安放送の「上からの」利用・活用のひとつの形態であり、宣伝・教化・意識昂揚、国民運動への呼応としての放送音楽の活用であった。しかし個々の特徴を見てみると、単に上からの統制一色ではなく、それまで見られなかった新しい要因や、『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』ならではの独自性が見出せる。作詞・作曲家の登用や国民運動とのタイアップ、メディアイベントとの連携などがその一端であろう。また時代の制約の中でもなお、特に曲に関しては一様でなく、時として流行歌を意識したもの、あるいは芸術歌曲を意識したものなど、戦時下という時代のワクにとらわれない楽曲も少なからず存在していた。

しかしこうした楽曲は、本稿で取り上げた吉本明光が、いみじくも「時期はかくも圧倒的に音楽を聴く心を支配する」と指摘しているように、大半は戦時下という特殊な状況下でしか受け入れられない性格のものであった。それは、例えば戦後に歌詞を変えて再生された《隣組》《お山の杉の子》や、愛唱歌・抒情歌として歌い継がれている《椰子の実》など、またいわゆる「懐メロ」としての《燃ゆる大空》《暁に祈る》等の一部の例外を除き、戦後は歌い継がれることもなく忘却の彼方に葬り去られてしまった。ただこれらの楽曲は、こうした時代状況と密接な関係にあったがゆえに逆に今日の視点からは個々の楽曲を繙くことにより、楽曲に色濃く反映された十五年戦争下の時代相を鮮明につかむことができることは確かである。

また、この時期の流行歌には、心情を表現した流行歌のほか、「国民歌」のような楽曲など、同じような題材を扱いながらも『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』や『職場のうた』の系譜に属さない楽曲も存在していた。これらの楽曲と「電波に乗った歌声」との共通点・相違点や、同じ「電波に乗った歌声」でも、特に放送局制定以外の楽曲は、なぜその楽曲が放送の対象となったのかなど、『國民歌謡』『われらのうた』『國民合唱』という番組の企画や、制定の背景にある時代との関連、そして上からの音楽の活用といった問題をふまえて考えていかなければならない課題であろう。

戦争の時代を後世に語り継いでいくためにも、これらの本稿で取り上げた放送番組やそこで放送された音楽を、時代の証言者として、今いちど客観的かつ科学的に捉え直さなければいけない。

第8回 『ラジオ歌謡』

『ラジオ歌謡』放送開始の時代

敗戦直後のラジオ放送は、玉音放送直後の混乱があったものの、8月24日夜に「唱歌集」が放送され音楽番組が復活した。それまでの戦意昂揚や国策宣伝、教化動員を目的とした放送から一転することになる。9月からは連合国軍総司令部民間情報教育局(CIE)の管轄下となりその放送基準に基づいて番組が編成され、絨毯番組の実施、クオーター制(15分単位制)、週日での番組時間枠の設定といった施策が実施された。また聴取者の声が反映された「街頭録音」などや、聴取者参加型の番組が誕生した。1945年10月の「希望音楽会」や46年1月の「のど自慢素人音楽会」がその典型である。さらに45年12月の「日響の時間」やレコードによる楽曲鑑賞の番組も導入されたが、46年5月、7月、12月には放送時刻改正、日本放送協会の機構改革が続き、組織体制や番組編成の模索が続いていた。そこには労働争議の高まりや「放送国家管理」という当時の社会状況や日本放送協会をめぐる混迷という背景もある。そんな中、46年3月には「東唱の時間」、46年12月には「話の泉」、47年7月には連続放送劇「鐘の鳴る丘」、同年9月「ラジオ体操」、同年12月の「世界の音楽」「日曜娯楽版」、49年には「音楽の泉」、同年8月には「うたのおばさん」など、放送による音楽の受容拡大を知る上でも欠かせない番組が登場している。『ラジオ歌謡』が放送開始となった46年5月1日は、このようなまさに激動の放送環境だった。《風はそよ風》で始まった『ラジオ歌謡』は、62年の放送終了まで15年継続し、その後は現在に至る『みんなのうた』に継続する。

『ラジオ歌謡』とは

戦後占領期の激変する環境のなかで、46年5月から放送が開始された『ラジオ歌謡』のコンセプトは、『國民歌謡』の目指した「ホームソング」そのものといえる。

「「戦争末期の頃から、本来の目標を遠ざかり、士気昂揚の役をになわされた国民歌謡を、改めて楽しいホームソングに切り替えた(中略)ひろく愛好され、のど自慢が全国的に爆発的に人気が出はじめたころに、よく歌われ(中略)ホームソング調から、ものによっては歌謡調に変化したものが含まれてきた」(三枝健剛「ラジオ歌謡の誕生」)

という当事者の評価からも明白である。特に、この時期に番組が始まった背景については、

「昭和二十一年一月、「のど自慢素人音楽会」が開始されたころは、深刻な食糧難・住宅難が続き、インフレーションが急速に進行して、国民生活の前途は暗いものがあった。二十一年五月一日、「ラジオ歌謡」が清新な明るさを盛った「風はそよ風」「朝はどこから」の二曲をもってはじめられたことは時期的に適切であった。」(『日本放送史・上』1965年)

と指摘されている。そこには前述した日本放送局内部の労働争議の高まりや占領政策の展開など、戦後占領期の混乱もあるだろう。こうして始まった『ラジオ歌謡』の受容は、「のど自慢素人音楽会」のように同時期のラジオ番組とも連動していたが最大の特徴といえる。このあたりの事情については、いくつかの言及がある。

「同年八月に放送された「三日月娘」は従来のラジオ歌謡にみられない思いきった作詞・作曲で話題となったが、このころの「ラジオ歌謡」は、「山小舎の灯」「緑の牧場」「すみれの花咲く丘」などの明るい作品が多く、その後の「さくら貝の歌」「薊の歌」などとともにヒット曲として「のど自慢」参加者らによって数多く歌われるようになった。」(『日本放送史・上』1965年)

  • 三日月娘(歌唱:SP音源)
    作曲:古関裕而
    編曲:古関裕而
    歌い出し:幾夜重ねて 砂漠を越えて
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 山小舎の灯(歌唱:SP音源)
    作詞:米山正夫
    作曲:米山正夫
    編曲:服部逸郎
    歌い出し:黄昏の灯はほのかに燈るりて
    価格:本体239円+税

    試聴できます

「戦後すぐの時代は、ほかに娯楽がなかったし、メディアとしてのラジオの力は大きく、ラジオ歌謡の普及率も高かった。特に『のど自慢素人音楽会』の曲目として歌われることが多く、そのことがさらにラジオ歌謡の発展に大きく寄与したのである。」(「洋楽放送七十年史」)

ここには、番組を聴き、同時に番組に参加する聴取者の主体的な意識と行動が見出せる。何よりラジオの音楽放送は、

「放送が、数百万の聴取者を対象としている以上、音楽放送を芸術的見地からだけで編成できないのはいう迄もない。大衆が歌謡曲や軽音楽を愛好するからには、番組企画の重心がここにかかってくるのは止むを得ない。大衆の趣向に応じた番組企画に重心が払われる所以である。「歌の明星」や「お好み投票音楽会」がその結果一般から甚だ支持され、「のど自慢コンクール」が圧倒的人気をかち得たのであった。」(『ラジオ年鑑 昭和24年版』)

と総括しているように、いかに聴取者に受け入れられる番組を制作するかに注力していたのであり、その結果として様々な趣向の番組が放送されていた。『ラジオ歌謡』も放送側の狙いや理想を、どのように聴取者に発信し支持を得るかの試行錯誤が続いていたのである。


「三日月娘」SPレコード 歌詞カードより(資料提供/日本コロムビア(株))

『ラジオ歌謡』の変遷

46年5月の放送開始時は、日曜と水曜の7:45から8:00だった。同年12月には木曜が加わり12:15という日中の放送となったが、翌年は番組名も放送日時も不定期となり、混乱が続くが、48年1月からは毎日7:30からの定時放送として定着する。49年1月からは、18:15の夜時間帯に変更となり、従来の朝の時間帯は「朝の歌」という番組となったが、ここでも『ラジオ歌謡』の楽曲が放送された。以降、時間帯や放送時間の変更は頻繁に行われたが、基本的に夕方か夜間に定期的に放送され、反復・継続性を持った音楽番組という『國民歌謡』以来の特徴は不変だった。

しかし、ここに至るまでには、放送側の試行錯誤の連続だった。その契機となったのが46年8月に発表された《三日月娘》だろう。

「「三日月娘」の放送に対する賛否の声は、こんな意味からも興味を惹いた問題で、それ以後、ラジオ歌謡に軽音楽的な、時には思い切って歌謡曲的な要素を強く取り入れた歌が多くなった(中略)しかし、また従来の國民歌謡の本質としての、広く一般の人に歌われる上品な歌という点で狙ったものも交互に加えられて行ったが、余程の佳品でない限り殆ど歌われないで終った。」(『ラジオ年鑑』昭和23年版)

健全なホームソングという大枠の志向は変わらないものの、聴取者に受け入れられる音楽という観点では、アジア・太平洋戦争期に『國民合唱』でも意識された流行歌の要素という考え方が、『ラジオ歌謡』でも実践されていたと思われる。また、放送形式も同一曲を同一時間に継続して放送する「指導」に重点を置くか、他の楽曲と混在させて放送する「鑑賞」に重点を置くかのせめぎあいがあった。特に、46年10月に放送された《山小舎の灯》《緑の牧場》といった楽曲の反響が大きく、以降は「鑑賞」を主とした番組構成がとられていた。この方針は、49年になると変化が見られた。試行錯誤の結果、「鑑賞」の限界が指摘され、「指導」の側面を重視することにより番組に活路を見出すこととなった。このあたりの事情は、

「年が変わってから(引用者注:1949年になって)、戦後はじめて、やや指導的方法にかえり、毎週一曲づつ通して放送するようになったのである。放送時間も夕方に変更され、戦前に行われた反唱的指導方法こそとらなかったが、歌詞を繰返して紹介するなどの方法をとった(中略)その頃から昔の國民歌謡の時代と同じように楽譜を出版してほしいという要望が高くなったが、これは近く実現するよう努力されつつある(「ラジオ年鑑 昭和24年版」)

という指摘からも見て取れる。この「指導」重視の姿勢が番組の定着化となったと推測される。

この番組の継続には、何より楽曲の創作と発信があってこそであった。『ラジオ歌謡』に関わった制作者や演奏者も、ジャンルの枠を越えた多彩な顔ぶれが特徴だった。例えば古関裕而、服部良一、飯田信夫、万城目正、長津義司、倉若晴生、林伊佐緒、吉田正、吉田矢健治、遠藤実などの流行歌でもお馴染みの作曲家、橋本國彦、團伊玖麿、高木東六、長谷川良夫、大沢寿人、安部幸明、芥川也寸志、平井康三郎、清水脩、小山清茂、宮原禎次、林光、岩河三郎、大中恩、中田喜直、湯山昭、富田勲などクラシック系や、合唱、子どものうたへのまなざしを抱いた作曲家のほか、異色のところでは、十時一夫、入江薫、中元清純といった宝塚歌劇の作曲家たちも参画している。演奏者もまた、ポピュラー、クラシックのジャンルを越えた様々な演奏家が出演している。美空ひばりも《あまんじゃくの歌》で演奏しているし、ダーク・ダックスやボニー・ジャックス、デューク・エイセス、スリーグレイシスなどの重唱グループの活躍も『ラジオ歌謡』ならではだろう。この顔ぶれの傾向も、当初『國民歌謡』が目指したものと同様で、『みんなのうた』に継続していく。

このような布陣で発表された楽曲は、曲調は様々ではあっても、『國民歌謡』が目指そうとした、また現在の『みんなのうた』に連なる、親しまれる「ホームソング」だった。

  • あまんじゃくの歌(歌唱:SP音源)
    作詞:深尾須磨子
    作曲:高木東六
    編曲:高木東六
    歌い出し:誰かと私 私と誰か
    価格:本体239円+税

    試聴できます

  • 森の水車(歌唱:SP音源)
    作詞:清水みのる
    作曲:米山正夫
    編曲:米山正夫
    歌い出し:緑の森のかなたから
    価格:本体239円+税

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「健全明朗な歌の創作普及を目的とした「ラジオ歌謡」は、前期に「山小屋の灯」「薊の歌」などを生んだが、この時期にも「白い花の咲く頃」「森の水車」「山のけむり」などの佳作が生れて全国的に歌われ、のど自慢に出場する人々のおもなレパートリーの一つとなった」(『日本放送史・上』)

という指摘は、《夏の思い出》《さくら貝の歌》《あざみの歌》《雪のふるまちを》今も愛唱される楽曲が『ラジオ歌謡』から誕生していることを物語っている。

  • 山のけむり(歌唱:SP音源)
    作詞:大倉芳郎
    作曲:八洲秀章
    編曲:仁木他喜夫 歌い出し:山のけむりのほのぼのと
    価格:本体239円+税

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  • あざみの歌(歌唱:SP音源)
    作詞:横井弘
    作曲:八洲秀章
    編曲:八洲秀章
    歌い出し:山には山の憂いあり
    価格:本体239円+税

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その中にあっても、戦後の社会状況が反映されたケースもあった。これは、

「終戦後の厳しい世相が歌の面で要求する方向にいつの間にか少しずつ引込まれて行った観があった。」(『ラジオ年鑑 昭和23年版』)

という指摘にもあらわれている。特に、1945年から52年にかけての占領期には、社会的事象への関わりが見られた。日本国憲法公布に連動した47年5月放送の《新日本の歌》と《われらの日本》、労働運動の影響が見られる、47年4月放送の《町から村から工場から》や、48年4月放送の《世界をつなげ花の輪に》、社会教育に関わる修養団制定で47年9月放送の《楽しいエコー》《親和音頭》など、この時期特有の時代状況が音楽にも、番組にも反映されていた。

もっとも、『ラジオ歌謡』が放送された、戦後占領期から復興期、高度成長に至る16年間は、国際情勢、国内の政治・経済、文化や生活環境が激変した時期で、放送メディアも、51年9月の中部日本放送と新日本放送(現・毎日放送)の開局を発端とする民間ラジオ放送局の開局、53年2月のNHKに続き、同年8月の日本テレビ放送網によるテレビ放送の開始など、多様化した時代でもあった。こうして、社会状況が変転し、音声・視覚メディアも多様化、音楽ジャンルも細分化していく中で、番組の限界も指摘されていく。

「出発当初は大きな反響を得ていた『ラジオ歌謡』も、次第の盛んとなるどぎつい演歌調やジャズ調の一般歌謡曲に押されて、段々と影が薄くなって来る。昭和24年4月にはラジオ歌謡委員会を発足させて外部委員の意見を集めたり、また歌詞の懸賞募集を再三実施し、31〜33年ころは、新作歌曲に加えて外国の愛唱曲の編作を交えたりして、いろいろと聴取者の関心を集めるための苦心が払われたが、結局時代の変化には勝てず開始以来16年間続いた番組を37年3月に終了した。」(「洋楽放送七十年史」)

既に、61年4月からは、NHK総合テレビで『みんなのうた』が放送されていた。『みんなのうた』は、49年から子どもの歌を紹介していたラジオ番組だった『うたのおばさん』のコンセプトを継承する位置付けだったが、番組の反復性・継続性や、作詞者・作曲者・演奏者の多様性、楽譜の発行という特徴は、『國民歌謡』が目指し『ラジオ歌謡』に継続した思想がそのまま踏襲されていた。 『國民歌謡』放送開始から79年、敗戦から70年の今、放送から生まれ発信された音楽のいとなみは、権力に介入され、社会に翻弄され、同調し、反発しながら試行錯誤を繰返して来た。この歩みを、事実を、改めて歴史に位置付け再考し、将来の教訓とすることが、私たちに課せられた役割のように思えてならない。


(左)「あまんじゃくの歌」SPレコード 歌詞カードより
(右)「山小舎の灯」SPレコード 歌詞カードより


(左)「森の水車」SPレコード 歌詞カードより
(右)「山のけむり」SPレコード 歌詞カードより


「あざみの歌」SPレコード 歌詞カードより(以上、資料提供/日本コロムビア(株))


楽譜「NHKヒットソング集2 ラジオ歌謡( I )1969年5月20日発行 日本放送出版協会


楽譜「NHKヒットソング集3 ラジオ歌謡( II )1969年6月20日発行 日本放送出版協会

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