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童謡誕生100年記念

コラムに掲載した楽曲を試聴することができます。


レクチャーコンサート「幼き歌声 童謡をめぐる」
第2回 童謡詩人を歌う 白秋・雨情・八十 より  2017年1月17日 すみだトリフォニーホール・小ホール
(監修&レクチャー) 周東美材,(うた) 稲村なおこ,西山琴恵, (ピアノ) 黒川浩

著者:周東 美材(しゅうとう よしき)

1980年群馬県桐生市生まれ。専攻は文化社会学,メディア論,音楽学。早稲田大学第一文学部卒業,東京大学大学院学際情報学府修了,博士(社会情報学)。日本学術振興会特別研究員PD(東京藝術大学),東京大学大学院情報学環特任助教を経て日本体育大学准教授。
単著に『童謡の近代――メディアの変容と子ども文化』(2015年,岩波書店,第46回日本童謡賞・特別賞,第40回日本児童文学学会奨励賞)。共著に『路上のエスノグラフィ――ちんどん屋からグラフィティまで』(2007年,せりか書房),『拡散する音楽文化をどうとらえるか』(2008年,勁草書房),『ポピュラー音楽から問う――日本文化再考』(2014年,せりか書房),『文化社会学の条件――20世紀日本における知識人と大衆』(2014年,日本図書センター),『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(2016年,東京電機大学出版局,2016年日本感性工学会出版賞)。

第1回 童謡誕生!!

周東 美材
日本体育大学准教授

童謡誕生

童謡はいつ,どのように生まれたのでしょうか? 本日のコンサートでは,童謡誕生の旅にみなさんをご案内したいと思います。
「童謡」は,1918(大正7)年7月,作家・鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』をきっかけにして広く使われるようになったことばです。『赤い鳥』のなかで,童謡の創作運動のリーダーになったのは,詩人・北原白秋でした。ですから,童謡がどのように誕生したのかを理解するためには,三重吉や白秋が何を目指してこの児童文化を展開させ,童謡という語にどんな意味を込めようとしたのかを知らなければなりません。
そのためには,私たちが知っている童謡のイメージをひとまず脇に置いて,当時の作り手たちや読者たちのことばに耳を傾け,彼らと同じ目線に立って考えてみることが大切です。このように考える立場は,私たちのコンサートの基本的なスタンスです。

学校唱歌・わらべうたとの違い

さて,童謡がどのように誕生したのかを考えるために,重要なポイントはふたつあります。ひとつは,童謡がそれまでの子どもの歌とは異なる,新しい歌として創作されていったということです。童謡誕生以前の子どもの歌といえば,代表的なものに学校唱歌とわらべうたがありました。  学校唱歌は,当時の文部省による官製の歌であり,教育のための歌,とりわけ人々の国民化や統治の手段として作られた歌でした。教育のための歌ですから,楽しみを目的にしているわけではありませんし,音楽性や芸術性といった問題も二の次でした。「忠君愛国」「立身出世」などのイデオロギーを,規律正しく,文語体の口調で歌うようなものだったのです。『赤い鳥』は,こうした学校唱歌を批判し,大人の都合で作った教育的な歌ではなく,子どもの感覚や純粋無垢な世界に寄り添おうとしました(ただし,それもまた大人の都合,特に都市新中間層の大人たちの都合によって作られたものではありましたが)。
今となっては,学校唱歌と童謡は,一括りにされてしまうことも多いですが,当時の人々にとっては,それぞれまったく異なる響きをもっていました。たとえば,国語学者で童謡研究家でもあった金田一春彦は,自らの子ども時代を振り返りながら「大正時代に生を受けた人間にとっては,それ〔注・学校唱歌〕はことに「童謡」と対比した存在として,あざやかに脳裡によみがえる」(『童謡・唱歌の世界』,p30)と書き記しています。そのため,彼は,童謡曲集のなかに《一寸法師》などの学校唱歌が混じっていると異質なものが紛れ込んだように感じるとも述べています。
童謡誕生以前の子どもの歌には,学校唱歌のほかにわらべうたもありました。わらべうたは,《ひらいたひらいた》《通りゃんせ》などのように,子どもたちが遊んだり大人の真似をしたりするなかで,作者もわからず作られ歌われてきた在来の歌謡のことです。民話や民謡などと同じように,地域や時代によってさまざまなバリエーションが生み出されていき,口から口へと歌い継がれたり,忘れ去られたり,新しい歌が生み出されたりしていきます。
童謡の作り手たちは,民間に伝承されてきたわらべうたを勉強し,自らの創作に積極的に役立てていきました。子どもたちが昔から歌い継いできた歌には,本来の子どもらしさや自然性が備わっていると考えたわけです。たしかに童謡の歌のモチーフやメロディーの作られ方には,わらべうたからの影響がしばしば見てとれます。しかし,作者名が明記され,商取引の対象となり,雑誌という複製メディアに媒介され,流行していく童謡と,そうではないわらべうたとでは,その性格がまったく違うのです。学問上,わらべうたは「民俗音楽」に分類されますが,大量複製と消費を前提にして作られた童謡は「ポピュラー音楽」に分類できます。

  • 一寸法師

  • ひらいたひらいた

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  • 通りゃんせ

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童謡とはどんな「ウタ」だったのか

童謡がどのように誕生したのかを考えるための,もうひとつのポイントは,童謡が文芸運動のなかで生み出されたという事実です。『赤い鳥』を導いたのは作家や詩人であり,音楽家ではありませんでした。彼らが目指していたのは,新しい「詩」としての童謡であり,それは楽曲ではなかった,つまり「音楽」ではなかったのです。
たとえば,『赤い鳥』創刊号に掲載された童謡の第一号《りすりす小栗鼠》について考えてみましょう(図1)。この童謡には,楽譜がついておらず,詩しかありません。作者は北原白秋です。こうした童謡の姿は,私たちの常識からするとかなり「奇妙な」ものに見えます。はたして,このような童謡を白秋や読者は,当時どのように歌っていたというのでしょうか。
『赤い鳥』の投書欄のなかから,読者の営みの痕跡をいくつか拾ってみましょう。――「あの謡の中の好きなのへ勝手に節をつけて歌つてをります」「童謡を読んで聞かしてやりました。みんな一心に聴いてゐました」「いふまでもなく童謡は是非声を上げて歌はれねばならぬ性質のものである。その真の生命は,子供の声の律動によつて始めて活躍するのである。たゞ単に読んで済ますだけのものではない」。
こうした投書からわかるのは,読者は自由に節付けて歌ったり,詩として読み聞かせたりしていたことです。童謡は,特定の旋律で歌われるのではなく,自由に朗吟されるものだったわけです。
白秋は,そのようにして自由に歌い出された声こそが,本当に自然な,子ども本来の歌であると考えていました。そのため,白秋は童謡に作曲することに断固として反対しました。彼は,「童謡は自然に子供の歌ふがままにまかせるものだと思ひます。その方がどれ丈本当だかわかりません。だれの作曲も感心しません」と鈴木三重吉に不平をこぼしています(白秋がこのような態度をとり,「奇妙な」童謡の姿を主張したことの真意は,彼のことばや詩に対する考え方を理解しなければなりませんが,いまはそこに立ち入る余裕はありません。詳しくは拙著『童謡の近代――メディアの変容と子ども文化』岩波書店を参照してください)。
けれども,多くの読者は,白秋の狙いに反して,作曲された童謡を求めるようになっていきました。読者のなかには,自作の楽譜を『赤い鳥』編集サイドに送る者もいました。三木露風の作詩した《おやすみ》という童謡の楽譜がそれで,作曲者は不男子という一般読者です(図2)。こうした読者からの要望に押されて,『赤い鳥』の編集と経営を取り仕切っていた三重吉は,童謡の作曲へと舵を切ります。この方針転換は,白秋と三重吉のあいだに深い溝を生むことになりました。
三重吉は,作曲家として成田為三を『赤い鳥』に迎え入れます。そして,作曲された童謡の第一弾として,1919(大正8)年5月,《かなりや》を世に送り出しました。成田は,三重吉の片腕として,『赤い鳥』の音楽部門の中核を担っていきました。興味深いことにこのころの『赤い鳥』では読者が作曲した楽譜が掲載されているのですが,成田はそうした読者からの応募楽譜の選考と批評も担当していました。たとえば,山田耕筰が作曲したことで有名になった《あわて床屋》なども,当初は石川養拙という読者が作曲したものが歌われており,こうした曲を成田は選評していたのです。(音源では2番までを石川養拙版を歌い,続けて山田耕筰版を歌っています)。
《かなりや》以降,『赤い鳥』や後続の『金の船』などの雑誌は,成田のほか,草川信,山田耕筰,中山晋平,本居長世といった若手作曲家たちが活躍するメディアとなっていきました。定期的に作曲する機会が与えられ,詩人と協力しながら自らの実力を試すことができ,しかもその楽曲を歌って楽しんでくれる読者たちがいる媒体というのは,西洋音楽を専門的に学んだ若手作曲家にとっては得難いものでした。そのため,当時の主な作曲家たちのなかで,童謡の創作に手を染めなかった人物はほとんどいないほどでした。
このようにして,童謡は,私たちの知るような楽曲としての姿を確立し,レコードやラジオなどのメディアへと波及していったのです。童謡は,100年近くも前に作曲され流行したポピュラー音楽ですが,いまもなお歌われる驚異的な生命力をもつ音楽となっています。こうした音楽は,近代日本の音楽史のなかで,ほかに類例がないといえるでしょう。

  • おやすみ

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  • かなりや

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  • あわて床屋

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楽譜情報

第2回 流行詩人としての童謡詩人――レコード・流行歌・新民謡

周東 美材
日本体育大学准教授

童謡詩人の世界

北原白秋,野口雨情,西條八十――。この三人の詩人がいなければ,童謡の100年の歴史はなかったでしょう。
《あわて床屋》《ペチカ》《しゃぼん玉》四丁目の犬》《かなりや》《肩たたき》など,いまなお愛される歌を紡いだのはこの三人でした。
彼らは,『赤い鳥』や『金の船』という月刊の童謡雑誌を通じて,童謡の創作運動を導いていきました。当時の日本で,若手の詩人と作曲家が協同して自由に創作し発表できる場は,めったにありませんでしたから,童謡雑誌は斬新なメディアだったのです。そのころ彼らは20代後半から30代前半の若手,いずれも早稲田大学の出身でした。将来を嘱望されたエリートではありましたが,官僚コースを歩むような帝国大学出とは違って,文学の創造のために新たな活動の場を果敢に求めた若者たちだったのです。彼らは子どもに表現の可能性を見出し,多くの人に親しめる歌,芸術性豊かな歌,西洋の真似ではない日本的な伝統の流れを汲んだ歌を新作しようとしました。
また,彼らは後進の育成にも励んで,童謡のあゆみに道筋をつけてもいきました。白秋は佐藤義美,巽聖歌,与田凖一,武内俊子を,雨情は中村雨紅を,八十は金子みすゞ,サトウ・ハチローを世に送り出したのです。そこから《かもめの水兵さん》《夕焼小焼》《かわいいかくれんぼ》《ちいさい秋見つけた》などが生まれることになります。
このような共通点はあるものの,彼らの作風はそれぞれに異なっていました。白秋といえば,1918(大正7)年創刊の『赤い鳥』で童謡の創作運動を先導した,童謡の生みの親です。白秋の童謡の特徴は,自然への回帰,研ぎ澄まされた五感,そして溢れる生命力です。また,モダンな風物や,多様な色彩や音が豊かに織り込まれてきることも印象に残ります。雨情は,『赤い鳥』のライバル雑誌『金の船』の中核メンバーでした。民俗的で野趣あふれる童謡が特徴的で,農村や郷土の簡素さや寂寥感を歌い上げています。言葉は余分を排して簡潔に整えられており,しばしば方言や俗っぽい言葉が使われます。八十の童謡は,雨情の影響も受けつつ,そこにフランスの象徴詩と都会人的なセンスが融合されています。ロマンチックで庶民派感覚が,八十の持ち味といえましょう。

  • あわて床屋

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  • しゃぼん玉

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  • かもめの水兵さん

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  • かわいいかくれんぼ

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ポピュラーな作家だった白秋・雨情・八十

しかし,このように三詩人をとらえることは,特に新しいものではありません。今回は,これまでの童謡詩人像とはちょっと違う側面にこだわってみたいと思います。 白秋,雨情,八十の三人は,童謡だけを創作していたわけではなく,同時期に大衆のための詩を書いてもいました。《船頭小唄》《さすらいの唄》のような流行歌,《須坂小唄》《ちゃっきり節》のような新民謡,さらには校歌,社歌,軍歌を手がけ,大衆からの絶大なる支持を集めていたのです。普通は,彼らの童謡の創作と流行歌の創作を切り離して考え,「芸術的なもの」と「ポピュラーなもの」とを分けてしまいがちです。けれども,それではこの詩人たちが生きた時代を理解するうえで,多くのものを見落としてしまいます。

ここでは「流行歌」のことを,(1)西洋音楽の理論に基づいて作られている(ドレミで書かれている),(2)作詞家・作曲家・歌手の専門家によって分業で作られている,(3)レコード産業によって新作されているという3つの要素を備えた歌ととらえてみましょう。現在の目からみれば,どれも当たり前に思える要素なのですが,『赤い鳥』が創刊されたころの人々にとっては,このような歌のあり方は,決して当たり前ではありませんでした。  庶民のあいだで人気だった芸能といえば,浪花節や義太夫などの演芸でしたし,はやりの歌といえば芸者が座敷で歌う端唄などを指していました。それらの歌は,作者のわからないものが多く,西洋音楽とは異なる理論に基づく芸能でした。つまり,先ほど述べた流行歌の要素を備えた歌ではなかったのです。また,1914(大正3)年の《カチューシャの唄》のようなはやり歌も生まれましたが,あくまで劇場から人気に火の点いたもので,レコード産業が新作して広めた歌ではありませんでした。こうした音楽文化の状況を変え,日本で流行歌が誕生する起爆剤となったものこそ童謡だったのです。

  • 船頭小唄

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  • さすらいの唄

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  • 須坂小唄

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それは童謡から始まった

そもそも1910年代半ばころまでのレコード産業は,自分たちで新曲を作って,ヒットさせようという発想をもっていませんでした。今となっては驚くべきことですが,レコード会社というのは,巷ですでに流行している歌や演芸を録音することばかり考えていて,自ら歌を作って流行を巻き起こそうなどとは考えていなかったのです。子どもの音楽は,このようなレコード産業が,既存の流行を後追いするのではなく,積極的に流行を生み出す姿勢へと転じていくきっかけになりました。
1916(大正5)年に日本蓄音器(後の日本コロムビア)に入社した森垣二郎という人物は,当時のレコード会社が新作を手がけるようになっていった様子を,こう振り返っています。

まず子供から,というのは各社の期せずして一致した企画になって,ここに新作の童謡が勃興してくる気運が動いた。そのトップを切ったのは,本居長世氏の「だるまさん」であった。これは童話劇として発表されたのであったが,これに刺激されて佐々紅華氏の作った「目なしだるま」は,純然たる新作の童謡として,レコード界に異常な注目をひいたのであった。……こうしてレコードが新作ものに手をつける時代が生誕したのであった。このおかげで「おとぎ歌劇」(童謡劇)がぞくぞくと生れると同時に,大人の世界を対象とした流行歌も新作の時代に移ったのであった。(『レコードと五十年』,1960年)
新作楽曲をレコード会社自らが制作し商品化する,という発想自体が新しかったわけです。そして,その変化のきっかけを作ったのは,「おとぎ歌劇」などと呼ばれたオペレッタ風のレコードでした。森垣はお伽歌劇と童謡とを混同しているので注意が必要ですが,子ども向けのレコードが変化の契機だったという指摘は重要です。
まさにその時期に『赤い鳥』『金の船』などによる童謡の創作運動も大衆的な人気を集めていました。当然,各レコード会社はその作り手たちを次々に迎え入れていきます。童謡雑誌は,月刊という特性から定期的に新曲を作り出す仕組みをすでに備えていましたし,詩と曲の分業体制も確立していましたから,レコード会社にとっては好都合でした。コロムビアやビクターなどは,白秋,雨情,八十,作曲家の中山晋平,本居長世,山田耕筰,弘田龍太郎などとそれぞれ専属契約を交わしていきました。このように,子ども向けの音楽を創作しようとする運動がレコード産業に組み込まれていき,そうすることで,「大人の世界を対象とした流行歌も新作の時代に移った」わけです。
大人向け流行歌の新作・量産システムは,《東京行進曲》の成功をもって完成しました。《東京行進曲》が作られたのは,関東大震災や大正天皇の崩御,レコード業界への外資参入などを経た1929(昭和4)年のことです。これは菊池寛の小説を原作とした映画「東京行進曲」の主題歌で,蓄音機台数が20万台程度だった時代に25万枚売り上げたといわれており,レコード流行歌の第一号と目されています。童謡詩人のなかでとりわけ才覚を開花させたのは,西條八十でした。《東京行進曲》を筆頭に《旅の夜風》《蘇州夜曲》《誰か故郷を想はざる》などのヒット曲を生み出し,押しも押されもせぬ大作詞家となっていきました。戦後には《青い山脈》《越後獅子の唄》《ゲイシャ・ワルツ》《りんどう峠》《王将》などを発表,弟子のサトウ・ハチローも戦後最初のヒット曲《リンゴの唄》を発表しました。新民謡の分野では,1933(昭和8)年に《東京音頭》を発表し,盆踊りの風習のなかった東京に盆踊り大会を根付かせていきました。
このようにして,本格的な流行歌の時代,今風にいえばJ-POPの時代が訪れました。その扉を開けたのは,童謡詩人たちだったのです 。

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楽譜情報

第3回 童謡はどのように歌われてきたのか

周東 美材
日本体育大学准教授

歌う少女たち

童謡の100年の歴史を振り返るにあたり,今回は,「童謡がどのように歌われてきたのか」について考えてみたいと思います。童謡の歌い手や歌われる場をめぐる変化に注目することで,詩人・作曲家や楽曲を主にした歴史とは違う新たな側面が見えてくるのではないかと思うからです。もとより,限られた字数で100年の歴史を隈なく詳らかにすることは不可能ですから,戦前の歩みに特に焦点を絞って考えていきたいと思います。第1回のコラムでも述べましたように,童謡はもともと詩として創作されたものであり,作曲された音楽ではありませんでした。童謡は,特定の旋律に縛られず,自由に節をつけて歌うべきものだったのです。とりわけ,『赤い鳥』童謡の生みの親である北原白秋は,童謡に作曲することに強く反対していました。童謡には曲が付いているのが当たり前で,そうでなければ歌えないと考える現在の私たちの常識は,白秋の当初の狙いからは,かなりずれているのです。
しかし,『赤い鳥』のもう一人のリーダーである鈴木三重吉は,必ずしも白秋と同じ考えではなく,音楽事業を展開していました。三重吉は,『赤い鳥』を主宰した編集者でしたから,童謡を音楽として広めていくこと,そうすることで『赤い鳥』の勢力図を広げていくことに,とても積極的だったのです。彼は,新人の成田為三を作曲家として登用して,童謡の詩に曲を付けたり,自身が主催者になって音楽会を開いたり,児童歌劇団を指導したりもしていました。童謡運動の特徴は,詩を作曲するばかりでなく,それを歌う場までも提供していたことだったのです。こうした特徴は,同時代の短歌や詩など他の文芸運動には見られないものでした。
三重吉の音楽事業の第一弾ともいえるのが,1919(大正8)年6月22日に帝国劇場で開催された「第1回赤い鳥音楽会」です。これは,『赤い鳥』創刊1周年の記念と,山田耕筰のアメリカ遠征の帰国を祝して行われたものでした。会は大変盛況で,1,700余りの客席は満員だったといいます。
この音楽会では,山田耕筰の前座として童謡《かなりや》《夏の鶯》《あわて床屋》の3曲が,8名から9名の少女とピアノ伴奏によって歌われました。『赤い鳥』の通信欄には,聴衆たちの寸評が寄せられていますが,白秋のような詩人が猛然と反発したことを除けば,この音楽会は,おおむね好意的に評価されています。この音楽会は,詩人にとっても,また多くの読者にとっても,童謡を聴くための最初の機会となったようです。これ以降,童謡は,ステージの上で歌われるものへと変貌を遂げていきました。こうした童謡のあり方は,読者たちが自由に歌うという当初の姿とは,ずいぶん異なっています。

三重吉の夢――赤い鳥児童劇学校

三重吉は,この音楽会以降,音楽関連の事業を展開していきますが,なかでも注目すべきは,「赤い鳥児童劇学校」の試みです。この赤い鳥児童劇学校については,これまでほとんど言及されることはありませんでしたが,重要な意味を持っています。三重吉は,童謡を高踏的な芸術として創作しようとしていただけでなく,娯楽やスペクタクルとしても展開させようとしていたことがわかるからです。
1925(大正14)年1月12日,三重吉が郷里の友人加計正文に宛てた手紙には,赤い鳥児童劇学校の構想が具体的に綴られています。それによれば,13歳から18歳までの少女20名と少年10名程度を雇用し,冬季以外は毎月3,4か所で,童謡と児童劇を興行する。家を1軒借り上げてそこを練習場とし,三重吉が劇を,成田為三が音楽を教え,いずれは「赤い鳥劇場」を設立するというものでした。こうした計画は,三重吉の「一生の事業」として位置付けられていました。
先の手紙から11日後の1925(大正14)年1月23日,同じ加計宛の手紙には,次のように認められています。

丁度よいことに,箱根土地株式会社といふ,資本金1億円の土地売買の会社があり,常に50万坪以上の土地を,方々に買つて,分割して売り,田園町を作つてゐる会社ですが,その経営の一つの「児童園」が新宿にあります。2万坪ばかりの広大な庭園で,入場料50銭で這入り,活動,歌劇,児童劇をたゞで見せる仕組みのものですが,現在やつてる歌劇,児童劇は,俗悪極まるものなので,(大阪の宝塚式)一つ高尚な歌劇と児童劇団を作るため,付属の学校を設け,3,000人以上を入れる,東京第1の劇場を建築する計画を立てゝゐます。……これは多分協定がつき,私が引き受け赤い鳥児童劇学校,赤い鳥歌劇学校,赤い鳥劇場といふ名前で成立することになるでせう。喜んで下さい。私の久しい久しい夢が実現するのです。

三重吉に児童歌劇学校の設立を依頼したのは,堤康次郎によって創業された箱根土地開発株式会社(のちのコクド,西武グループ)でした。箱根土地は,大正期の好景気と震災後の郊外移転の波を受けて,土地売買・株式支配・郊外開発などの事業によって成長したディベロッパーのことです。その事業分野のなかには,新宿園や豊島園(現としまえん)などのレジャー施設の開発も含まれており,三重吉が手紙に記している新宿の「児童園」というのは,この新宿園のことを指しています。新宿園は,1924(大正13)年夏,四谷区番衆町(現新宿区新宿5丁目),のちの東京厚生年金会館付近に開業,白鳥座(劇場),孔雀座(映画館),鴎座(演舞場),人造湖,ダンスホールなどを備えた複合娯楽施設でした。この新宿園のなかで,三重吉の「久しい久しい夢」は実現しようとしていたのです。
また,新宿園による児童歌劇学校の創設計画と時を同じくして,「東洋一の遊園地」といわれた鶴見花月園からも,三重吉は児童歌劇学校創設の依頼を受けていました。1925(大正14)年4月13日の加計宛ての手紙によれば,男女各30名の団員を目指して第1回の入学試験では女子6名,男子2名の採用が決定し,寄宿舎もほぼ完成,5月から始業予定とのことでした。
しかし,新宿園も鶴見花月園も,いずれもその計画は,出資者の都合により頓挫してしまいました。たとえば,鶴見花月園については,1925(大正14)年5月31日付の書簡には次のように綴られています。

私は3月から児童劇歌劇学校といふものを作るつもりで2か月間昼夜奔走し,5月1日から少数の生徒を集めて授業にかゝりましたが,金を出す男が急にヘコタレたらしく,前途が危ないので,5月7日にキレイサツパリと解散してしまひました,そのアト始末に追はれ3月以来の疲労と一しよにヘトヘトになつて居ます。
三重吉が,「一生の事業」と語った赤い鳥児童劇学校の夢は,これ以降実現の見込みが立つことなく,潰えてしまいました。しかし,わずか1週間とはいえ,『赤い鳥』が中心となった児童劇学校が存在していたことは見逃せない事実です。

童謡歌手の誕生

戦前の童謡のあり方は,読まれる詩であったり,自由に歌われるものであったり,はたまたステージで上演されるスペクタクルであったりと,さまざまな可能性が模索されていました。ですが,次第にひとつの方向性へと収斂していくことになります。そのきっかけとなったのが,作曲家の本居長世と,その娘みどりでした。
本居みどりは,最初の童謡歌手としてデビューしました。赤い鳥音楽会から1年半後,1920(大正9)年11月27日,8歳のときのことです。この日,東京の有楽座で「新日本音楽大演奏会」が開催されました。これは,長世の他,筝曲の宮城道雄や尺八の吉田晴風が参加する邦楽的な色彩の強い演奏会で,赤い鳥音楽会とは別の文脈で企画されたものでした。
この演奏会で,みどりは,管弦楽の伴奏で《十五夜お月さん》を歌ったのです。みどりは著名な作曲家の娘,しかも本居宣長に連なる家柄の娘でしたから,大いに注目を集めました。演奏会翌日の『国民新聞』は,「ホロリとさせた/みどり嬢の独唱/将来はきつと楽壇の/大ものに成る人/本居長世氏の令嬢(八ツ)」と見出しを抜いて,その様子を報じたほどです。みどりの公演を聴いた聴衆の一人に,言語学者の金田一京助がいましたが,彼は,「みどりちゃんの上手なことったら,あんまり上手なんで拍手は止まらなくなっちゃったんだよ」(金田一春彦『十五夜お月さん――本居長世 人と作品』,1982年)と,そのときの興奮を家族に語ったといいます。
このとき,みどりが特に注目されたのは,その歌が独唱であったことでした。当時は子どもによる独唱という公演形態はとても珍しいものでしたし,しかも良家の幼い令嬢がステージに立ったということが衆目を集めたのです。赤い鳥音楽会の場合などとは違って,ソロだったことが聴き手には可憐なものと映り,子どもらしい自然な哀調があると感じられたようです。
みどりに続き1922(大正11)年には次女の貴美子が,1925(大正14)年には三女の若葉が,それぞれ初舞台を踏みました。本居親子は,各地で公演を行っては評判を呼び,童謡の普及活動に邁進していくようになります。しかも,彼女らは雑誌のグラビアを飾るなどして,現代のアイドルや子役タレントさながらの活動を展開していきました。
ニッポノホン(のちの日本コロムビア)というレコード会社は,親子を専属として抱え,《お山の大将》《青い目の人形》《赤い靴》などのレコードを吹き込ませていきました。また,1925年7月12日に本放送を開始したラジオも,本居親子に出演を依頼しました。彼らが初めて童謡を放送したのは同年3月3日,本放送が始まる以前の試験送信の段階のことです。これ以降,東京放送局JOAKは,彼らの歌声をたびたび電波に乗せていきました。このように本居親子は,民間のレコード産業からも,国営の電波事業からも重用されるタレントだったのです。
レコード会社は,本居姉妹に続く歌い手を次々にスカウトしては,専属化していきます。コロムビア,ビクター,ポリドール,キングといった会社からは毎月のように童謡の新譜が出されましたが,各社の歌い手たちは,専属詩人・作曲家の創作した童謡を歌っていきます。1920-30年代以降,レコード会社の子どもの歌手たちのスカウト合戦が白熱し,平井英子,河村順子,そして川田正子といった歌い手が世に出て行ったのです。このような童謡歌手の乱立状況が訪れることなど,白秋はおろか当の長世さえ想像していなかったでしょう。

子どもの歌声の記憶

童謡を歌う子どもたちは,「豆歌手」とも呼ばれていました。戦後には安田祥子・章子(のちの由紀さおり)姉妹,伴久美子,近藤圭子,古賀さと子,小鳩くるみ,松島トモ子などが人気をさらい,豆歌手ブームは1960年代まで続いていきます。テレビ芸能界の誕生のきっかけが1959(昭和34)年の渡辺プロダクションの設立,アイドルの本格的な産業化が1970年代以降だと考えれば,ちょうどそれまでの時期が豆歌手ブームと重なるわけです。
本居親子以降に活躍した子どもの童謡歌手たちの声は,「黄色い」や「舌足らずな」という形容が常套句となっていくように,かなり独特なものがあります。その発声は,地声で声を詰めて歌うために,喉を痛めることが多く,ときには声が出なくなってしまうこともあるほどだったといいます(川田正子『童謡は心のふるさと』,2001年)。そのため,この発声法は見直されていくことになるのですが,もともとは「子どもらしさ」の表現として作られたものだったのです。
童謡歌手の他にも忘れてはならないのは,児童合唱団の存在です。音羽ゆりかご会,青い鳥児童合唱団,東京放送児童合唱団,杉並児童合唱団など,多数の児童合唱団が結成され,レコード会社専属の児童合唱団も組織されました。童謡歌手や児童合唱団の子どもたちは,童謡のみならず,アニメやCMなどの分野にも活躍の場を広げていきました。
現在ではすっかり聴く機会も減り,忘れられていますが,かつてのテレビやラジオからは子どもたちの歌声が盛んに流れていたのです。子どもの歌声は,いわば戦後日本社会の「音の風景」というべきものを作り上げていました。たとえば,有名な「鉄腕アトム」の主題歌を思い浮かべてみてください。あのような子どもの歌声が,さまざまな場面で聞こえていたのです。文明堂のカステラを歌ったCMソングなどは,今なお現役の数少ない例のひとつといえるでしょう。
子どもの童謡歌手の流行の一方で,戦後の童謡は,放送メディア,とりわけ教育番組とも強く結び付いていきました。そのなかで,大人の歌い手が現れていきます。とりわけ,1949(昭和24)年放送開始のラジオ番組「歌のおばさん」は重要な契機となりました。また,1961(昭和36)年放送開始のテレビ番組「うたのえほん」は,現在も放送中の「おかあさんといっしょ」へと連なっていきます。これらの番組で主役になったのは,子どもの歌い手ではなく,松田トシや安西愛子といった「歌のおばさん」,真理ヨシコや中野慶子といった「うたのおねえさん」でした。このような幼児教育番組に出演することを専業とする職業音楽家というのは,世界的に見れば大変珍しい歌い手のあり方です。「うたのおねえさん」や「うたのおにいさん」というと,当たり前のように日常のなかに存在する音楽文化ではありますが,実は日本社会の特徴や歴史を刻み込んでもいるのです。
以上のように,童謡の歌い手や歌われる場は,次々に変容し,拡散していきました。最初に童謡運動を導いた北原白秋が童謡に込めた狙いや,鈴木三重吉の夢見た事業のことなど,いまや完全に忘れられています。彼らの遺した童謡は残っているのに,それをどのように歌おうとしていたのかについては,ほとんど顧みられていないのです。しかし,童謡が100年という長い年月を超えて歌われてきたのは,そうした多様な変化に対応し,時代ごとに歌の担い手や場を変えてきたからではないでしょうか。童謡の作り手や楽曲だけでなく,その歌われ方という視点から童謡の歴史に光を当ててみることも,重要であると思います。

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