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クラス合唱の歴史と展開

中学校における学校行事の中核といっても過言ではないほど盛り上がりを見せる校内合唱コンクール。
2010年に行われたベネッセ教育総合研究所による「第5回学習指導基本調査(小学校・中学校版)」では,全国の中学校における学校行事の実施状況が報告されており,年に1回以上,行事が行われている比率は,「運動会」93.4%に次いで,「文化祭」89.5%,「合唱などのコンクール」86.5%,「校外での宿泊を伴う行事」71.3%,「スポーツ大会」67.9%という結果が明らかになっています。(1)
特に,中学校における校内合唱コンクールは,音楽の授業との連携をはかりながら,学校における大きな音楽教育の成果とつながってきました。(2)
そして,地域や年代によって差があるものの,授業や校内合唱コンクールで取り上げられた合唱曲は,「クラス合唱曲」という一ジャンルを作り出し,合唱経験者のみならず学校教育の中で誰もが通ってきた「懐かしい歌」として「思い出」と共に人々の記憶に刻まれています。

では,「クラス合唱」というジャンルは,どのようにうまれたのでしょうか。本特集では,戦後のクラス合唱界をけん引し,「大地讃頌」の普及者としても著名な下田正幸氏をはじめ,教材開発を手掛けてこられた教科書会社,出版社の皆さまへの聞き取り調査を通し,「クラス合唱」の歴史的過程をひも解いていきます。

(1) 橋本尚美(2010)『第5回学習指導基本調査(小学校・中学校版)』ベネッセ教育総合研究所,pp.68-69。
(2) 加藤富美子(2008)「2 学校教育のなかの音楽」『現代日本社会における音楽』(放送大学教材)財団法人放送大学教育振興会。

市川 恵早稲田大学教育・総合科学学術院助教

東京学芸大学教育学部卒業。
東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程音楽文化学専攻音楽教育修了,同大学院博士課程修了。博士(学術)。修了時に,大学院アカンサス音楽賞受賞。東京藝術大学大学院音楽研究科教育研究助手を経て,現在,早稲田大学教育・総合科学学術院助教。分担執筆に「文化としての日本のうた」(東洋館出版)がある。21世紀の合唱を考える会合唱人集団「音楽樹」会員。

みんなで歌った合唱コンクール,あの頃を思い出すと元気が出る!

合唱界のレジェンド 下田正幸先生監修により全曲新録音した,昭和のクラス合唱名曲集

もう一度、歌いたい。
クラス合唱名曲集〜怪獣のバラード・あの素晴しい愛をもう一度〜

第1回 校内合唱コンクールのはじまり

戦後の学校教育における合唱活動

学校教育における合唱活動の始まりは,唱歌教育に遡ります。唱歌教育では法規上,合唱にも取り組むことになっており,音楽取調掛や東京音楽学校が編纂した唱歌教育教材の『小学唱歌集』第三編(1884年)や『中等唱歌集』(1889年)にはかなりの数の合唱曲が収められています。(3)

(3) 戸ノ下達也(2011)「第1章 日本の合唱事始め」『日本の合唱史』,戸ノ下達也・横山琢哉編,青弓社。


  • 『唱歌集』第三編 表紙

  • 『唱歌集』第三編「第八十九 花鳥」

  • 『中等唱歌集』表紙

  • 『中等唱歌集』「第十五 埴生の宿」

しかし,実際には指導者の不足などから唱歌教育の普及の度合いには地域によってかなりの差があり,合唱となれば尚更難しかったことでしょう。
日本の学校教育では,1941(昭和16)年の国民学校制度において,それまでの教科名であった「唱歌」から「芸能科音楽」となり,戦後は「音楽」と改められ,戦前の国民的情操を養うための教科から,芸術教育・情操教育を担う教科として位置づけられました。音楽的経験による美的情操の教育を第一に掲げたのです。(4)そして,器楽や創作,鑑賞などの学習活動が加えられました。しかし,学習領域が広がっても,歌うことに多くの時間が割かれ,歌唱活動は音楽学習における中心的な役割を果たしていました。その理由として,『学習指導要領』の学年目標・内容が合唱活動を推奨してきた歴史的な背景と,教科書の内容が歌曲や合唱曲を中心に編纂されてきたことが考えられます。(5)

第1次学習指導要領[1947(昭和22)年]から第4次学習指導要領[1969(昭和44)年]まで「合唱」という用語が頻繁に用いられ,第1次では「表現力の方面では合唱・合奏に力を注ぐ」,「発声に対する十分な訓練を行う」,第2次では「斉唱・輪唱・合唱(同声および混声)などを盛んにして」,「グループ合唱や集団合唱・学校合唱団の発達をはかる」,第3次では「歌唱は,合唱を中心として行い」,第4次では「曲態は(中略)特に合唱に重点をおく」などの記載が見られます。このように,合唱活動に関して,演奏形態の例示,合唱の導入方法や基礎的な練習方法,発声指導の注意事項など具体的な記述を盛り込み,注力するように薦めていたのです。

(4) 浜野政雄(1973)『新版 音楽教育学概説』音楽之友社,p.35。
(5) 高橋雅子(2006)「歌唱(合唱)教育の展開」『戦後音楽教育60年』音楽教育史学会編集,開成出版,p.68。

合唱熱の高まりと学校教育

1950 年前後の文部省による歌唱教育の研究推進や,ウィーン少年合唱団の来日など様々な要因から,戦後の復興期には,合唱教育が全国的な規模で隆盛を迎えることになります。また,この時期には,学校での合唱活動が盛んに展開されたのみならず,各地で少年少女合唱団が組織されるなど,青少年の文化活動としても合唱活動は中心的存在となりました。また,1932(昭和7)年に「児童唱歌コンクール」という名称で開始された「NHK全国学校音楽コンクール(6)」をはじめとした公共放送や民間放送のコンクール,「競演合唱祭(7)」が発展し,全日本合唱連盟が設立された1948(昭和23)年に始まった「全日本合唱コンクール」など,アマチュアによる合唱コンクールが盛んな状況にあり,それに相まって日本の合唱のレベルも向上し,合唱熱が高まっていった時期でもありました。 このコンクールの隆盛に関して,下総皖一氏は,1958(昭和33)年の『教育音楽』(中学版・10月号)「特集 新しい合唱曲の創造を目指して」において,「日本における演奏技術の向上や合唱人口の増加に貢献してきたことは間違いない。盛んになる一方で,レベルの差も開いており,実力相応の合唱曲が見つからないという問題も起こっていた」と述べています。同じく,平井康三郎氏は,1958(昭和33)年の『教育音楽』(中学版・9月号)「てい談 音楽教育よもやまばなし〈合唱指導を中心に〉」にて,現在はコンクールが盛んになってことによって「教育の谷間」ができていると述べています。コンクールに向けて訓練する学校とコンクールには手も届かないと出場しない学校間での格差,校内でも優秀な生徒を集めてコンクール用に訓練する生徒とそうでない生徒間での格差が起きており,コンクールは,技術の進歩には大変な功績を残したものの,音楽を純粋に楽しむという面ではマイナスであるとコンクールの功罪を指摘しています。コンクールが盛んになる一方で,「情操」「豊かな人間性」に重点の置かれた1958(昭和33)年告示の第3次『学習指導要領』では,「共通教材」の枠が設定され,共通のレパートリーや愛唱歌をもたせて音楽の生活化が図られました。(8)

(6) 何度から名称を替え,1962(昭和37)年より「NHK全国学校音楽コンクール」の名称に定着する。
(7) 1927(昭和 2)年に小松耕輔(1884‐1966)を理事長として設立された国民音楽協会 が主催したコンクール。
 「合唱競演大音楽祭」という名称で開始され,第8回(昭和9年)から「競演合唱祭」に改称。1942(昭和 17)年,第16回をもって戦時体制下のため中止される。
(8) 佐野靖(2006)「基準『学習指導要領』と音楽教育の史的展開」『戦後音楽教育60年』音楽教育史学会編集,開成出版,p.38。

全校での合唱活動の推進と校内合唱コンクールのはじまり

合唱熱が高まるなか,全校での合唱活動を推進することを試み,その先駆的な存在となったのが,中学校音楽科教員であった下田正幸氏,小林光雄氏,柴山正雄氏らでした。彼らは,「合唱を学校生活の一部に」という願いをもって誰もが楽しめる合唱活動を目指しました。昭和26年に東京都の公立中学校に着任した下田氏は,当時を振り返り,昭和30年頃の教科書や音楽授業について次のように語っています。

教科書は,何か作品を寄せ集めて作っているようなものだったというのが正直なところでしょうか。監修者の作品と外国曲が多くを占めている状態でした。昭和33年の学習指導要領で初めて共通教材が登場して,「サンタルチア」や「帰れソレントヘ」それからブラームスの「子守唄」なども入っていました。しかし,当時は邦人作品がほとんどなかったです。だいたいヨーロッパの易しい名曲や民謡に日本語の歌詞が付いたユニゾンの作品が多かったように記憶しています。ですから,私は自分で色々な曲を探してはプリントして合唱の授業をしていました。

歌唱教材のジャンルに関しては,1969(昭和44)年告示の第4次『学習指導要領』による検定教科書までは,外国曲の教材が7〜8割を占めていました。昭和20年代には,古典派・ロマン派の曲が中心だったのに対し,1958(昭和33)年告示の第3次『学習指導要領』による検定教科書では,外国の民謡が中心に掲載されました。高橋(2006)は,その理由として,当時はうたごえ運動や合唱運動の隆盛期と重なっており,その影響から教科書にもロシア民謡や黒人霊歌などが多く取り上げられたのではないかと推察しています(9)。1977(昭和52)年告示の第5次『学習指導要領』による検定教科書からは,教科書用に作曲されたオリジナルの邦人作品も増えてきます。下田氏のインタビューからは,邦人作曲家による合唱作品も未開拓であった時代に,教師自身が,教材となる作品を集めて授業を充実させていたことがうかがえます。また,下田氏は当時の生徒たちの様子を次のように振り返っています。

(生徒たちは)喜んで歌っていましたね。例えば,修学旅行。当時は修学旅行専用列車があって,長い時間をかけてバスや電車で行ったものです。その道中で,大合唱が始まるわけ。合唱曲集に載っているような曲を次々に暗譜で歌っていました。当時,私は中瀬中学校に異動していて,そこでは合唱の生活化を狙っていました。部活におけるコンクールへの傾倒も激しくなっていていましたが,一部の生徒だけでなく学校全体が盛り上がらないといけないと考えていました。

さらに,下田氏は,音楽の授業だけに留まらず,学校行事としての合唱活動も提案します。それが,現在も行われている「校内合唱コンクール」の始まりでした。下田氏は,「校内合唱コンクール」を始めたきっかけを次のように語っています。

(9) 高橋雅子(2006)「歌唱(合唱)教育の展開」『戦後音楽教育60年』音楽教育史学会編集,開成出版,p.68。

昭和33年頃,どの学校も「卒業生を送る会」というのをやっていました。そこでは,芝居やコメディチックな出し物をしていたのですが,1年生の担任だった私は,同僚の先生たちを集めて合唱をやろうと提案して,1年生の全クラスで合唱コンクールをやってしまったのですね。それが,たぶん校内合唱コンクールのはしりですね。他の学年の先生がそれ見ていて,次の年から全学年に広がっていきました。もちろん,芝居も大切にしている先生もいらしたので,芝居と合唱コンクールと2本立てで「卒業生を送る会」を行っていました。当時は,そんなことは,どこの学校もやっていませんでしたね。〈中略〉クラス単位での合唱,特に合唱コンクールとなるとまずよく練習をします。クラス対抗だと必死でね。それこそ朝の練習なんて学校が始まる前に生徒が来て歌っていました。

下田氏自身が校内での合唱コンクールを始めたのは昭和33年頃であり,当時としては珍しい学校行事であったことでしょう。下田氏が自分の担当学年で実施したことから校内に広がっていった様子が伺えます。また,卒業式や文化祭等の公の場において集団で歌うことを披露することはありましたが,そこに競争を取り入れてコンクールという形式にしたことで,より目標が明確化されクラスの団結力も高まったことが想像されます。 コンクールの課題曲については次のように述べています。

当時は邦人作品が少なかったので,簡単な外国の曲を課題曲にしました。「おお,ひばり」などをよくやりました。「おお,ひばり」は,3年生の教科書に載っていましたが,まだ混声合唱にはなっていなくて女声合唱のままの譜面でしたね。

下田氏が述べているように,昭和30年代,戦後間もない頃の教科書に掲載されていた曲は,「埴生の宿」など外国曲に日本語をあてはめた歌曲や民謡が多く,合唱曲は,男声も女声も二部に分かれて歌う二部合唱の形態の作品がいくつかあるのみでした。また,「おおひばり」は,高野辰之作詞・メンデルスゾーン作曲の同声二部合唱で,当時は中学校教科書を中心に11社で掲載されており,定番の合唱曲でした。他方,小林光雄氏は『教室からのエッセイ わたしの合唱遍歴』のなかで,昭和32年に赴任した杉並区立宮前中学校での実践を振り返り,当時の様子を次のように述べています。

昭和32年ころは,一クラス六十数人という過密学級で,指導もゆきとどかず,たいへん苦労した。そこで,音楽の授業の中だけで,グループ分けをしてみた。一クラスを六班ぐらいに分けて,各グループに音楽リーダーを置き,自主的に合唱練習をするように指導してみた。

「学級づくりに結びついた合唱指導」を目指してきた小林氏は,音楽指導も含めた生活グループごとの自主的合唱練習を進めることとし,毎時間,やさしい混声三部の曲を課題として与え,次の時間に発表させるという形をとりながら,「グループ合唱」という授業形態を確立していきました。学級担任の指導と相まって効果を上げ,自然発生的にどのクラスからも,帰りのホーム・ルームで合唱がきこえてくるほどであったといいます。また,小林氏は,当時の教材について次のように振り返っています。

流行歌しか歌わない子ども,エレキは弾くけれども,学校の歌を歌わない子どもたちに,合唱の喜びを与えたいと思い立った私は,三十三年に,ガリ版刷りで『宮前歌集』なるものを作ってきました。一ページぐらいで終わる,ごくやさしい混三の曲をたくさん集めてみました。「学校における合唱流行歌をつくろう」というのが私のねらいでした。

小林氏も自ら教材を集め,全校生徒で歌えるレパートリーを広げていこうとしていたことがうかがえます。また,「NHK全国学校音楽コンクール」の課題曲も,1年生は全員,主旋律を歌い,2・3年生がハーモニーをつくるという形で全校合唱を進めたり,1年生と3年生の合同授業も度々行なったりと,1年生から混声三部合唱の経験をもてるように工夫していたようです。また,週二時間という枠のなかで,合唱の生活化を進めることは困難であり,ホーム・ルームを利用したり,音楽会でのクラスの合唱コンクールを企画したりすることによって,全校的に合唱が定着するような仕掛けを考えていました。 また,宮前中学校では,昭和35年から毎年秋に合唱祭を実施していたようです。この合唱祭は,合同授業の延長としての「クラス合唱コンクール」という形であり,杉並公会堂が満員になるほど保護者や地域の方々が観客として集まったといいます。小林氏は,当時の様子を次のように述べています。

生徒の実行委員会組織をつくり,それぞれの練習日程を組ませる。実行委員はプログラムを編成し,合唱祭当日の受付・座席割当・会場整理・司会・進行など自主的に活動を進める。この頃になると,担任も長年生徒の合唱を聴いて耳も肥え,いっぱしの批評家となり,職員室で合唱批評に花が咲く。

クラス合唱コンクールを生徒たちの自主的な活動と位置付けると同時に,学級担任をも巻き込んで,学校行事として盛り上がっていたことがうかがえます。

第2回 教材としての合唱曲の登場

混声三部合唱への編曲

邦人作曲家による合唱作品も未開拓な時代であった昭和30年代,当時は男子が歌うことに抵抗を感じる風潮があったことや,技術的なレベルからも西洋の混声四部合唱の形態で歌うことは非常に難しかったようです。

日本人が合唱することについて,平井康三郎は,1958(昭和33)年の『教育音楽』(中学版・9月号)「てい談 音楽教育よもやまばなし〈合唱指導を中心に〉」にて,「日本人のハーモニーの感じ方というものは,いわゆる四声体のような,完全な終止形というものは伝統的に頭の中にない,それは何か異質なものでそれに入っていくには非常に抵抗を感じる」と述べ,四声体の合唱は日本人にはまだまだ馴染みのないものであることを述べています。

また,学校現場からの意見として,1958(昭和33)年の『教育音楽』(中学版・10月号)「特集 新しい合唱曲の創造を目指して」にて,当時,東京都北区の中学校教師であった堀内秀治氏が,中学の合唱曲に欠けていることとして次の3点を指摘しています。

第一に,変声期という特殊な期間があるため,音域を考慮しなければならない。かといって,全体を低くしすぎて,女声パートが歌いにくくなっている場合もある。

第二に,各パートが楽しくうたえるよう主旋律を各パートに交互にもたせるように考慮することが望ましい。男声パートに主旋律をもたせる編曲も増えてきたが,アルト・パートに少ないという。

第三に,ソプラノを充分に生かした色彩感を出せるような編曲をしてもらいたい。

中学生の発達段階に合った楽曲が少ないという状況のなか,現場からの声も取り入れつつ,教材の開発を手掛けた先駆的な存在として,教育芸術社の創業者かつ作曲家であった市川都志春氏が挙げられます。

市川氏は,戦前から親しまれていた曲を混声三部合唱という形態で,男声はいわゆる混声四部合唱のバス・パートのような役割を担う形で編曲をしました。教材としては,二部合唱曲が優勢だった時代に風穴を開けたのです。これが,現在のクラス合唱では当たり前の形態となった混声三部合唱の始まりです。教育芸術社の発行する教科書において,「混声三部合唱」の編曲が登場するのは,昭和26年文部省検定済教科書からです。それまでの合唱曲は,同声二部,三部,混声四部の形態で掲載されていました。

「埴生の宿」(作曲:ビショップ,訳詞:里見義)の編曲の過程を例に取り上げてみると,昭和24年文部省検定済教科書『中学音楽3』(教育芸術社)では,同声三部合唱の形態で掲載されています。すべてのパートがト音記号で書かれ,ハ長調かつ無伴奏です。また,低声部は,主音もしくは属音を担当しています。高声部と中声部の2パートのみで歌うことも可能な編曲となっています。男女等しく分かれるのか,低声部を男声が歌うことを想定しているのか定かではありませんが,仮に低声部を男声が1オクターヴ下げて歌った場合,変声期の段階を考慮すると,かなり歌いにくい音域になってしまうのではないかと考えられます。

一方,昭和26年文部省検定済教科書『教芸の中学音楽3』(教育芸術社)に掲載された楽譜では,ハ長調からニ長調へと調性が2度上がっており,伴奏付きになっています。曲名の下には,「二部合唱または混声三部合唱」という記載があり,選択ができるような編曲となっています。また,低声部は,へ音記号で書かれており,男声のためのパートであることが明確に示されています。低声部は,主音もしくは属音を担当しており,混声四部合唱のテノール・パートを抜いたような形となっています。ピアノ伴奏が,バスの声域を補っている箇所もあり,男声の音域や技術的なレベルを考慮していることがうかがえます。

譜例1 昭和26年文部省検定済教科書『教芸の中学音楽3』(教育芸術社)「はにゅうの宿」(小学唱歌,作曲:ビショップ,訳詞:里見義)

続いて,昭和32年文部省検定済教科書『横版中学音楽3』(教育芸術社)に掲載された「グローリア」を例に取ってみると,混声四部合唱であった原曲を混声三部合唱へと編曲する際に,「埴生の宿」とは異なる方法が用いられていることが分かります。

譜例2 昭和32年文部省検定済教科書『横版中学音楽3』(教育芸術社)「グローリア」(久野静雄作詞,モーツァルト作曲,市川都志春編曲)

最初は,女声と男声のユニゾンから始まり,それに続く男声パートの旋律は,原曲ではテノール・パートの旋律であり,譜例2の練習番号「A」から始まる旋律は,原曲ではアルト・パートの旋律となっています。このように,市川氏は,原曲のアルト・パート,テノール・パート,バス・パートの旋律をそのまま男声パートに生かしたり,原曲には見られない新たなフレーズを創作し,男声パートに取り入れたりと,中学生の音域に十分に配慮しながら編曲をしています。この「グローリア」は,学校外のコンクールでも歌われましたが,授業などクラスで歌われることも想定して,楽曲の尺を短くできるなどの工夫もなされていました。そして,教育芸術社より「教芸合唱シリーズNo.1」ピース版として発売され,全国的にプロモーションも行われました。その結果,学校現場から高い支持を受け,以後クラス合唱の定番曲となりました。混声三部合唱の普及の引き金になった楽曲といえます。

混声三部合唱曲に対する見解

この混声三部合唱に関して,当時の作曲家はどのように考えていたのでしょうか。1958(昭和33)年の『教育音楽』(中学版・3月号)には,東京都中央音楽大会にて小・中学生による合唱の演奏を聴いた岡本敏明の講評が掲載されていますが,そこでは,「混声三部というのは,男子の変声期への配慮や,どちらかといえば技術面に劣る男生徒を二つのパートにわけることは指導上困難に感じるので,男子のパートを一つにした便宜上の構成であって,和声の充実感は四部合唱にくらべて,甚だしく劣るものである」と述べています。また,1958(昭和33)年の『教育音楽』(中学版・9月号)では,磯部俶は,「ハーモニーの点からも,音楽的な観点からもちょっと淋しい気がしますが,過渡的な年齢の段階として,大いに用いられるべき」という見解を述べています。つまり,混声三部合唱曲は,作品の音楽的価値と中学生という発達段階の特性という狭間でうまれてきた作品といえるでしょう。あくまで合唱作品としての完成形ではなく,合唱の基本形態である混声四部合唱へと経験の幅を広げて合唱の魅力を味わうためのステップだったのです。

混声三部合唱曲の教材化と展開

昭和40年代に入るといわゆるオリジナルの混声三部合唱曲が次々に創作されます。

中学・高校生のために作曲された代表的なオリジナル作品としては,1965(昭和40)年に教育芸術社より出版された『学生のための合唱曲集 混声三部合唱“旅人の歌”』(作詞:三好達治,作曲:市川都志春)が挙げられます。1967(昭和42)年には,第2集,第3集が出版されます。第1集の「旅人」はじめ,第2集の「はだか馬に風が吹いた」など,ここから長く歌われることとなったヒット曲も掲載されています。これらは,どちらかというとコンクール向けの難易度の曲集でした。

また,1969(昭和44)年には,『混声合唱曲集』(教育芸術社)が,普通授業で個人持ち楽譜として使用されることが想定され,外国曲の編曲作品とオリジナル作品の混ざった作品集として出版されました。ここには,先述した「グローリア」をはじめ,石桁真礼生編曲「モルダウの流れ」,市川都志春編曲「タンホイザー行進曲」などが掲載されています。

1971(昭和46)年には,市川氏の手を離れ,当時,石桁真礼生門下の若手作曲家であった飯沼信義氏,川崎祥悦氏,金光威和雄氏,高井達雄氏,田中利光氏,田中均氏,平吉毅州氏らによる『新しい混声3部合唱1集,2集』(教育芸術社)が出版されます。

邦人作曲家による中学生のための合唱作品が生み出された当時のことを下田氏は,次のように語っています。

ようやく出始めたのが昭和37年頃でした。京嶋信先生や渡部節保先生,そして川口晃先生。京嶋先生や渡部先生は小学校の先生でした。このような先生方が出てきて中学生のための合唱作品を書きました。混声三部の形です。当時作曲家たち,とくに平吉毅州先生や飯沼信義先生は,「混声三部?四部に決まってるだろう!」と言っていました。何せ作曲家たちにとって,混声三部は特殊な形でしたからね。そうした作曲家たちに対して教科書の編集者たちは,中学生の男子は音域が狭く,三部という形式が必要だという事を説明し,理解を求めていました。飯沼先生も最初はどの程度書いていいか分からなかったらしいのですが,その頃に初めて書いた「麦藁帽子」は,やっぱり名曲として残りましたね。

当時,児童・生徒の実態をよく知る現場の教師が合唱作品を創出し始めていることは特徴的です。音楽之友社からは,1961(昭和36)年から始まった『中学生の合唱(1)〜(12)』,『新しい中学生の合唱(1)〜(4)』というシリーズにて,混声三部合唱の外国曲の編曲作品や京嶋信氏,渡部節保氏,川口晃氏らのオリジナル作品が次々と掲載されています。京嶋氏は,そのなかで作詞も手掛けています。また,雑誌『教育音楽』に発表した作品らをまとめた曲集として,それぞれの作曲家別の作品集も出版されており,意欲的な作品が並んでいます。

下田氏のインタビューからは,混声三部合唱という特殊な形態に困惑する作曲家の理解を求めるために,教科書会社や教師が熱意をもって説明し,中高生も歌える合唱作品の創出に情熱を燃やしていたことがうかがえます。その過程のなかで作曲家自身も中高生の実態の理解に努め,「中高生が歌うための混声三部合唱」という非常に制約の多いなかで意欲的な作品を創出していきました。その代表的な作品が収められた曲集が,『新しい混声3部合唱1集,2集』(教育芸術社)といえるでしょう。この曲集は,クラス合唱でも校外のコンクールでも歌われ,「山のいぶき」(作詞:松前幸子,作曲:川崎祥悦),「麦藁帽子」(作詞:立原道造,作曲:飯沼信義)など,これから長く愛される名曲もうまれました。「麦藁帽子」は,後に第53回(昭和61年度)NHK 全国学校音楽コンクール中学校の部の課題曲として指定されます。

この時期以後,作曲家,教師,教科書会社が集まって座談会が行われています。その様子について,下田氏は次のように述べています。

教科書会社が主導となって,教師,作曲家と一緒に(作品を)作っていきました。当時,教育芸術社の細長い編集室で,飯沼信義,平吉毅州,金光威和雄,といった作曲家を集めて,現場からは私や小林光雄,柴山正雄が呼ばれて一緒に会議をしました。そこでは中学校の合唱教育,合唱作品はどうあるべきかについて,ああでもない,こうでもないと議論を重ねたものです。作曲家に対しては,具体的に楽曲の中身に踏み込んだ要望を出すこともありました。そして,私たち教師が試験的に自分たちの学校で歌わせてみて,それをまた持ち寄って色々な話をしました。その会議は,ものすごく有意義でしたね。私も勉強になりましたし,作曲家の先生たちも勉強になったと思います。

混声三部合唱曲は,生徒の実態を考慮して創作するという制約のなかで試行錯誤しながら生み出されてきた作品であるといえるでしょう。作曲家,教師,教科書会社との協働のなかで,作品としての音楽的価値と生徒の実態という狭間で生み出された合唱作品は,教材としての価値も非常に高く,長く多くの人に愛される名曲として残っていきました。

第3回 「クラス合唱」のはじまり

副教材の登場

学校外でのコンクールへ脚光が当たる一方で,クラスで歌える曲を増やそうという流れのなかで,1971(昭和46)年に,『中学生のための混声合唱曲集 空のひつじ』(教育芸術社)というドイツ民謡の訳題がタイトルとして付けられた曲集が出版されます。この曲集の前書きには,次のように書かれています。

この合唱曲集は,中学校の普通授業で使用するために作られたものです。

この頃の中学生は,入学当時すでに変声期にはいっているものが多いのが実態のようです。したがって歌唱の場合は,斉唱よりもむしろ変声の実態にあった編曲から合唱にはいったほうが楽であり,それに音楽そのものにも喜びや興味を持つようになるようです。

この前書きは,当時,公立中学校教師であった西山英二氏による言葉であり,この曲集には西山氏の編曲によるものが多く掲載されています。また,この曲集は,単なる作品集ではなく,生徒の実態に応じて「段階を追って系統的に排列されている」ことが特徴的です。現場の教師の実践でのアイディアを組み込みながら,クラス授業の中で音楽の喜びを感じられるような作品が並べられており,すでに多くの学校で歌われてきた曲が集められた曲集でした。これは,教科書とは別の副教材にあたるものであり,クラスの一人一人が個人持ちの楽譜として授業で使うようになりました。また,1974(昭和49)年に出版された『新版 空のひつじ』では,「風になりたい」(作詞:喜志邦三,作曲:磯部俶),「巣立ちの歌」(作詞:村野四郎,作曲:岩河三郎),「大地讃頌」(作詞:大木惇夫,作曲:佐藤眞),「河口」(作詞:丸山豊,作曲:團伊玖磨)などが掲載されています。クラス授業で歌われる定番曲が,このような曲集に掲載され,どんどん普及する形となったのです。つまり,この昭和40年代に中学生に歌ってもらうための楽曲が定着し,一種のトレンドとしてクラス合唱というジャンルが形成されてきたのです。

昭和50年代に入り,「クラス合唱用」と明記された曲集,『若い旅』(教育芸術社)が出版されました。


『若い旅』(教育芸術社)

当時,調布市立神代中学校の教師であった渡瀬昌治氏が編纂に加わり,中学校3年間使用できる個人持ちの教材集としての配慮から同声二部,三部合唱から混声二部,三部合唱へと作品を並べ,中学1年生でも歌えるような作品が幅広く掲載されています。このスタイルは,現在出版されているクラス合唱曲集にも踏襲されています。「切手のないおくりもの」(作詞・作曲:財津和夫),「見上げてごらん夜の星を」(作詞:永六輔,作曲:いずみたく),「あの素晴らしい愛をもう一度」(作詞:北山修,作曲:加藤和彦)などの歌謡曲の編曲作品が掲載されていることも特徴的です。『若い旅』は,その後『Chorusへの招待』,『MY SONG』などのクラス合唱用の作品集へと時代の要請に応えながら編纂されていきます。特に,音楽科の授業時間数が削減されたことから練習時間が多く取れなくなったことや,男女の人数バランスの背景から混声二部合唱曲の需要も高く,合唱の導入の意味も含めて,曲集に多く掲載されるようになりました。

そして,昭和50年代後半には,続々とクラス授業で歌うためのオリジナル教材が誕生します。当時は,バブル景気に向かう時代でもあり,「次に出る新しい曲は,もっとよい曲のはず」という風潮が浸透し始め,定着した楽曲だけでなく,新曲を積極的に扱う先生が増えたといいます。そのような時代背景の中で生まれたのが,昭和59年度に3年生の教科書に掲載された「遠い日の歌」(作詞:岩沢千早,作曲:橋本祥路)です。「夢の世界を」(作詞:芙龍明子,作曲:橋本祥路),「若い翼は」(作詞:きくよしひろ 作曲:平吉毅州)「大空賛歌」(作詞:桑原ほなみ 作曲:黒沢吉徳)なども同時期に掲載された教材です。これらの作品は,コンパクトな内容で生徒が覚えやすく,教材性も持ち合わせていることから学校現場からの支持が高く,世代を超えて現在も教室で愛されています。

また,昭和60年代は,副教材が非常に充実した時期でもありました。音楽之友社からは,授業の役立つ副教材合唱曲集として『中学生の新しいクラス合唱曲集 風よあの大空へ』を皮切りにNew Original Chorus Albumシリーズが出版され,クラス合唱として歌える作品が充実していきました。この流れは,1989年出版の『クラス合唱曲集 ヒット・コーラス』へと繋がっていきます。雑誌『教育音楽』においても新作がどんどん発表されていきました。さらに,中学生のための演奏会用合唱曲集として,『混声合唱曲集 新しい年への願い』,『現代混声合唱名曲選』が出版されるなど,質,量ともに作品が充実し,生徒の実態に応じた選曲の幅も広がっていきました。

その他,学校で親しまれてきた合唱作品として,「NHK全国学校音楽コンクール」の課題曲が挙げられます。この課題曲の多くは委嘱作品ですが,コンクールを離れて音楽の授業でもレパートリーとして定着したり,独立した楽曲として,あるいは組曲や曲集へ編まれて広く歌われるようになったりという過程を歩んだ楽曲も少なくありません。「未知という名の船に乗り」(第48回,作詞:阿久悠,作曲:小林亜星),『海の詩』(第42回,第53回(昭和61年度)「海はなかった」,作詞:岩間芳樹,作曲:広瀬量平),「ともしびを高くかかげて」(第41回(昭和49年度),第54回(昭和62年度),作詞:岩谷時子,作曲:冨田勲),「ひとつの朝」(第45回(昭和53年度),第51回(昭和59年度),作詞:片岡輝,作曲:平吉毅州),「わが里程標(マイルストーン)」(第48回(昭和56年度),第54回(昭和62年度),作詞:片岡輝,作曲:平吉毅州),「河口」混声合唱組曲『筑後川』(第53回(昭和61年度),作詞:丸山豊,作曲:團伊玖磨)などがその例として挙げられます。

校内合唱コンクールの隆盛

このような過程を経て創作された合唱曲が,「クラス合唱」として定着していく背景には,合唱祭,校内合唱コンクール,卒業式といった学校行事との結びつきが欠かせません。大学生を対象としたアンケートにおいて,学校の音楽でもっとも印象に残っていることとして,校内合唱コンクールに向けてクラスの仲間たちと一丸となって合唱を仕上げた経験が挙げられることは多いです。学校行事での音楽は時間をかけて取り組んだり,他者に向けて発表したりする特別な機会として,より印象深い感情経験となるものです 。(10)そして,行事での音楽経験は,その場面や情景やさまざまな記憶と結びついて心に残り,大人になり時を経て心を揺さぶる存在となる可能性をもつのです 。(11)

(10) 有本真紀(2015)「第3章 音楽科と学校行事――学校と音楽科をつなぐ――」『教科教育シリーズ5 音楽科教育』橋本美保,田中智志監修,加藤富美子編著,一藝社,p.56。
(11) 有本真紀(2015)「第3章 音楽科と学校行事――学校と音楽科をつなぐ――」『教科教育シリーズ5 音楽科教育』橋本美保,田中智志監修,加藤富美子編著,一藝社,p.62。

では,合唱祭や校内合唱コンクールは,学校教育の中ではどのような教育活動として位置付き,盛んになってきたのでしょうか。

「学校行事」は,中学校においては「学級活動」,「生徒会活動」とともに,「特別活動」領域に位置付けられます。この特別活動の目標は,「望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団や社会の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,人間としての生き方についての自覚を深め,自己を生かす能力を養う」ことです(平成20年告示中学校学習指導要領)。「望ましい集団活動を通して」行うことを,その特質及び方法原理とする「特別活動」は,児童生徒にとって教科学習とは異なった学びの場となると同時に,保護者や地域と学校をつなぐ点からも重視されます。

また,この「学校行事」の目標として,「学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる」ことが挙げられています(平成20年告示中学校学習指導要領)。さらに,その内容として,「全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと」と明記され,儀式的行事,文化的行事,健康安全・体育的行事,旅行・集団宿泊的行事,勤労生産・奉仕的行事の5つから構成されています。合唱コンクールは,「平素の学習活動の成果を発表し,その向上の意欲を一層高めたり,文化や芸術に親しんだりするような活動」である「文化的行事」に位置づけられるのです。

1958(昭和33)年改訂の中学校学習指導要領では,「特別活動」の標準授業時数が年間35時間であったのに対し,1969(昭和44)年改訂の中学校学習指導要領では50時間,1977(昭和52)年改訂の中学校学習指導要領では70時間と改訂毎に増加しています。1969(昭和44)年に改訂された際には,「特別活動」では,集団としての活動に関わる人間形成が重視されました。その背景としては,「かぎっ子」のように急速に集団的な活動が減り,児童・生徒の環境は,孤立化の傾向を強めつつあったため,学習指導要領では「学校行事」が重視されたのでした 。また,この時代は,日本の学校は勉強時間が多く,教育内容の水準は世界一であるといわれていました。1977(昭和52)年に改訂された際には,高度化・効率化を追求した1960年代の高度経済成長志向の教育に対して,人間性豊かな児童生徒を育てることを「人間性の回復」を求める教育へと転換していきます。「ゆとりあるしかも充実した学校生活」を創りだすために,教育課程の規制を緩和し,学校独自で内容を考えるという基準の大綱化が打ち出されます。また,授業時間数が大幅削減されたなか,音楽・美術・道徳の変更はなく,特別活動は増加して「人間性の育成」に関わる時間として重視されました 。集団でひとつの目標に向かっていく合唱コンクールはまさに「特別活動」に合致する活動であり,この時間を合唱コンクールに充てて,活動を促進させることができたのではないかと考えられます。

また,校内合唱コンクール(合唱祭)が盛んになった背景には,「いじめ」「不登校」「校内暴力」といった教育問題も挙げられます。1960年代の高度経済成長期における高度化・能率化を追求した「現代化」路線の結果,「詰め込み教育」や「おちこぼれ」といった教育問題となり,学校荒廃が社会問題として顕在化してきてしまいます。そこで,荒れた学校現場をまとめるための手段として,クラスの仲間と歌い合わせて団結を深める校内合唱コンクールが流行したと言われています。音楽科教師だけでなく,学校長を始めとする管理職や学級担任をも巻き込んで,生徒指導・生活指導の観点からも合唱活動が推進されていきました。合唱活動は,学校経営,学級経営の重要な手段として,校内に位置づいていったといえるでしょう。つまり,社会的背景から合唱コンクールの教育的意義や価値が見出されていったのです。

さらに,当時,特に男子が歌うことに消極的であることが現場の課題となっていました。そこで,教科書会社では,現場の声を反映し,男子が自信をもって歌える箇所をつくろうと,男声パートにメロディーを与えるというアレンジを試みます。1983(昭和58)年発行の教科書『中学生の音楽2』(教育芸術社)に掲載された「翼をください」(作詞:山上路夫,作曲:村井邦彦)では,冒頭(Aメロ)は女声と男声のユニゾンから始まりますが,続くBメロでは,女声はオブリガートを担い,男声が主旋律を歌うのです。この教科書の1つ前に発行された1977(昭和52)年発行の教科書『中学生の音楽3』(教育芸術社)にも「翼をください」は三年生の教材として掲載されていますが,サビに向かうまでのアレンジは全く異なるものであり,男声はBメロの途中から歌い始め,主旋律を歌う部分もありません。1983(昭和58)年発行の教科書『中学生の音楽2』(教育芸術社)に掲載された「翼をください」のアレンジは,現場から大反響を呼び,子どもたちの愛唱曲となりました。このような教育的配慮によって曲がアレンジされ,新しい教材として支持を得て,今でも世代を超えて歌われ続けているのです。

譜例3 1983(昭和58)年発行教科書『中学生の音楽2』(教育芸術社)「翼をください」(作詞:山上路夫,作曲:村井邦彦)

また,音楽の力で学校を再生したいという願いからうまれた楽曲として1991(平成3)年に作曲された「旅立ちの日に」(作詞:小嶋登,作曲:坂本浩美)が挙げられます。この曲は,当時の埼玉県秩父市立影森中学校校長であった小嶋登氏が作詞し,音楽科教諭の坂本浩美(現・高橋浩美)氏が作曲を手掛けました。小嶋氏は当時,荒れていた学校を建て直すため「歌声の響く学校」を掲げました。そして,その取り組みから3年目の春に,坂本氏は「卒業する生徒たちのために,何か記念になる,世界にひとつしかないものを残したい」との思いから「歌声の響く学校」の集大成として作曲しました。翌1992年に松井孝夫氏が混声三部合唱に編曲し,『教育音楽』の付録として取り上げられたことから徐々に全国的に広まっていきました。その後,有名歌手によるカバーやCMソングへの起用の影響もあり,今では,小中高の卒業式で広く歌われ,「仰げば尊し」(作詞・作曲不詳),「贈る言葉」(作詞:武田鉄矢,作曲:千葉和臣),「巣立ちの歌」(作詞:村野四郎,作曲:岩河三郎)などに代わり,高い人気を誇る卒業ソングとして学校教育の場に位置づいています。このように,教師自らが作詞,作曲を手掛け,生徒の心情に寄り添った楽曲が生み出され,愛唱曲として定着していくという過程は,学校教育ならではといえるでしょう。 校内合唱コンクールは,学級集団という学校教育における重要な単位での活動と,合唱という協働的な音楽活動が結び合ったからこそ,本番までの過程において生徒たちに豊かな感情経験をもたらす学校行事となったといえるでしょう。一方で,音楽の授業内容が行事の練習にすり替わってしまったり,対外的な発表の場であることから,出来栄えを重視する成果志向に陥りやすくなったりする危険性があることも事実です。先人たちの数々の実践例のように,授業との有機的な連関を保ちながら学校行事に音楽活動を取り入れていくことによって,生徒の音楽経験をより広げたり,深めたりすることが可能であり,授業時数の少ない音楽科にとっては教科指導を行う上でも重要な意味をもちます。 最後に,「クラス合唱」について,教材としての合唱作品の創出と学校行事との関連から述べてきました。「クラス合唱」は,生徒たちの豊かな音楽経験と人間的成長を願い,音楽の授業の枠を超えて学校行事と連動した形で合唱活動が推進された結果としての産物なのです。そして,歌い継がれる名曲がうまれた背景には,教師・作曲家・教科書会社の協働による教材開発の軌跡があったのです。1曲1曲が,その作品を口ずさんだ中学生,高校生の個々の思い出と強く結びついており,それらが世代を超えて学校教育の場で「生き続けている」ということこそ,「クラス合唱」の最大の魅力といえるでしょう。

※インタビューにご協力いただいた下田正幸氏,菅原敏彦氏(東京書籍),今井康人氏(教育芸術社),岸田雅子氏(音楽之友社)に心より感謝致します。