歌声喫茶

歌声喫茶って何?

「歌声喫茶」は読んで字の如く、喫茶店でお茶を飲みながら、みんなで一緒にひとつの歌を合唱するという形態を持った店のことです。

1950年代後半から1960年代、つまりこの「歌声喫茶」の中から、ロシア民謡の「カチューシャ」や「ともしび」、外国曲の「おお牧場は緑」「雪山讃歌」、日本生まれの「北上夜曲」など続々とヒットソングが生まれていた時代には、店内でアルコールは販売されていませんでしたが、現在はジョッキ片手に、♪川の流れのように…などと歌えるようになりました。

文化の多様化や、安保運動の挫折を経て減少していたところへ、カラオケの発達が拍車をかけ、一時期は「歌声喫茶」の店自体がどんどん消えていきましたが、21世紀目前になって再び注目されるようになるのです。

独自でのどを競うカラオケとは違った、みんなで歌う楽しさをもう一度といった希望が復活の道をたどらせたのでした。まるで懐かしい友人と出会うような感覚が「歌声喫茶」にはあるのです。さらにこの場所から「涙そうそう」「千の風になって」「夜明けのメロディー」など新たなヒットソングが誕生したことが、人気の再燃につながっています。

私は著書『童謡の謎』がベストセラーになったこともあり、ひとつひとつの童謡や愛唱歌に秘められた謎や秘密をひも解きながら歌う「童謡の謎コンサート」を開いています。「まさか童謡で笑ったり泣いたりできるとは思わなかった」とよく言われますが、そんな幼き頃に歌った童謡や唱歌も「歌声喫茶」の大切な歌たちです。そんなこともあってか、ここ数年は"みんなで歌おう"という形の「歌声喫茶」スタイルのショーの依頼も増えています。そこにあるのは舞台と会場、そして会場の隣の人がたとえ夫婦や恋人、友人など知り合いでなくっても、一体になることが出来る、つまり連帯感が生まれることこそがその人気の秘密だといえるでしょう。

実際に最初の頃の「歌声喫茶」がまさしくそうでした。当時は田舎を離れて都会に出向いてきた若者たちが多かった時代です。今のようにテレビやパソコンが手軽な時代ではありません。携帯電話だってありません。飛行機や新幹線など便利なものが急に発達するのはここ数十年のことです。

田舎の子は気おくれしてしまい、故郷なまりが恥ずかしく、都会になじめなかったそんな時代、故郷なまりが飛び交う民謡酒場が注目されました。そこに行くと故郷の人たちに会える気がしたからです。しかしそこは"酒場"なのです。お酒が飲める年齢ならいいけれど、中学を卒業したばかりの少年少女には抵抗がありました。それが歌声喫茶は"喫茶店"なのです。一杯100円か150円のコーラかコーヒーを頼んで、一杯でねばって閉店近くまでみんなで次々と歌を歌うのです。それは淋しさからの逃避でもありました。しかしそのうち、そこで出会った仲間たちと友情が芽生え、時には恋に発展していった、そんなほほえましいケースもあったのです。

最初のうちの「歌声喫茶」は、そのレパートリーのほとんどがロシア民謡でした。なぜ? は、来回にでもまた詳しくお話しますが、そのロシア民謡に加え、「かあさんの歌」や「原爆許すまじ」などの「うたごえ運動」から創作名曲が生まれ、さらに地方出身者たちが「うちの田舎ではこんな歌が流行っている」とか「昔から歌われている」といった各地方でだけ歌われる歌、たとえば「琵琶湖周航の歌」だったり「北上夜曲」だったり「もずが枯木で」だったり、といった歌たちがレパートリーに加わってゆくのです。自分の学校だけで歌われる寮歌や学生歌、登山者だけが歌っていた山の歌、あるサークルの仲間うちの歌、労働者たちの歌、地元のバスガイドが歌っていた歌…ありとあらゆるローカル色豊かな歌が、ひとつの店で口から口へと伝わり自分たちの愛唱歌になっていったのです。

そこはまるでそれまで知らなかった歌の再生の場所になりました。紹介の場になったのです。歌というツールを通して仲間意識と連帯感が生まれるのです。その基本的な姿勢は今もなお変わっていません。

歌声喫茶ができるまで

「歌声喫茶」が流行し、その場所からヒット曲が生まれるようになるのは昭和30年代に入ってからです。しかしその歴史をふりかえる上で、「歌声喫茶」と直接的結びつきはありませんが、終戦後に生まれた「うたごえ運動」を避けては通れません。

終戦後の生活苦とファシズムの専制政治から解放された歓びは、それまでにない労働運動の高まりとなって現れました。その中から労働歌というものが公募、選定されて広く歌われました。「異国の丘」などを後に歌ってヒットさせる竹山逸郎が歌った「町から村から工場から」などがその代表的な歌でした。その頃、戦時中に敵性音楽として演奏も歌唱も禁じられていたジャズソングや、「星の流れに」や「憧れのハワイ航路」など流行歌も植民地的な色合いが濃い歌が巷を席捲していました。それらの歌に飽き足りない労働者たちは、自らの手で健全で明るい、働く者たちの文化を取り戻そうと合唱や器楽、演劇のサークルを作り始めたのでした。

「うたごえ運動」は戦後すぐに再出発した青年運動から自然に発生し、職場や学校などで行われていましたが、昭和23('48)年、中央合唱団が結成され、関鑑子(あきこ)を中心とした『みんなうたう会』が展開されました。そんな中からロシア民謡の、♪リンゴの花ほころび…の「カチューシャ」、その頃封切られたソ連(現ロシア)の音楽映画「シベリア物語」の主題歌になった、やはりロシア民謡「バイカル湖のほとり」などが人々の口に上るようになります。

そんなところへ、ソ連から帰った日本人たちの帰還者楽団が活動を開始し、さらなるロシア民謡ブームが起こります。彼らが後の『音楽舞踊団カチューシャ』です。24('49)年には敗戦のため旧満州で捕虜となり、シベリアに抑留されていた元日本兵たちの間から反軍闘争、反ファシズム運動が芽ばえ、民主日本への決意へと高まっていく中でさらに数多くの歌が歌われます。

『カチューシャ』がソ連から持ち帰った「ともしび」「トロイカ」などに加えて、「合点だ」「平和を守れ」といった創作曲もうたごえのサークルの中ではさかんに歌われるようになりました。

「新しい日本の歌を誇らかに歌い、諸民族の平和の歌を高らかに明るく歌い広める」という「うたごえ運動」が発展するのです。"歌は戦いとともに"の時代は、ここで"うたごえは平和の力"、そして"しあわせの歌""ふるさとの歌"へと変化していきます。その結果「原爆許すまじ」「しあわせの歌」「かあさんの歌」、さらに郷土民謡の掘り起こしによって、当初は茨城民謡とされていた「もずが枯木で」(この曲は、後年、サトウハチロー作詩、徳富繁作曲と判明します。)などが歌われ、これらは後々、ロシア民謡とともに「歌声喫茶」の重要なレパートリーになっていきました。

さて、その「歌声喫茶」の発祥にはこんな話が残されています。

昭和29('54)年頃のことです。東京新宿区にあった食堂に来店した舞台芸術学院の女学生のグループたちが歌を歌い始めました。すると自然と歌が輪になり、店内が合唱の渦になったのです。「これだ!」と閃いた店の主人が、歌えるお店へと鞍替えしました。新事業の誕生です。昭和31('56)年、店でもっともリクエストの多かったロシア民謡「ともしび」にちなんで、「うたごえの店 灯」が生まれました。現在も人気のお店「ともしび」です。

その人気ぶりは大変なもので、それは新たな店の出現へと波及していきました。「灯」も都内に3軒、「どん底」「カチューシャ」「アルプス」「山小屋」と20軒ほどが続々と開店し、どこも連日連夜大賑わいで、歌声があふれていました。戦後復興の息吹の中で生まれ育った「歌声喫茶」に課せられたものは、青春であり希望でした。やっと取り戻した平和への感謝であり、日本人にとっての次なる目標の模索でもあったのです。

昭和34('59)年、皇太子が一般家庭のお嬢様、正田美智子さんとご成婚され、東京でオリンピックが開催されることが決まりました。それこそが希望であり平和であり次なる目標でした。そんな気概の中、若者たちは歌でひとつになっていくのです。それこそが「歌声喫茶」のピーク到来でもありました。

歌声喫茶で流れた歌1

『歌声喫茶』が生まれ、東京だけではなく各地方都市にも出現しました。ここで歌われる歌が第一次の『歌声喫茶』によるヒットソングたちです。ロシア民謡の「ともしび」「カチューシャ」「赤いサラファン」「一週間」や『うたごえ運動』の流れから生まれた「原爆許すまじ」「かあさんの歌」などとともに、『歌声喫茶』で当時歌われていた歌にはどんなものがあるのでしょうか?

確かに「月の沙漠」「赤とんぼ」、♪うさぎ追いしかの山…の「故郷」といった童謡唱歌や、「城ヶ島の雨」「浜辺の歌」といった抒情歌の類(たぐい)、さらに「誰か故郷を想わざる」「蘇州夜曲」「リンゴの歌」「白い花の咲く頃」など戦中戦後にヒットした歌謡曲の名作なども好んで歌われていました。

しかし『歌声喫茶』の特徴は、各地方で歌われていた歌を、その地方出身のお客たちがみんなに紹介して、それがヒットソングにつながるという現象でした。つまり "歌の堀り起こし"ともいうべき役割だったのです。『うたごえ運動』時代の"ふるさとの歌"再発見が大きな形となっていったといっていいでしょう。

「貝殻節」「ひえつき節」「こきりこ節」「そうらん節」など、土地土地ではよく歌われていた民謡は、その当時、日本最大の人気歌手だった三橋美智也が続々とレコーディングして大ヒットさせ、全国的に有名にしていきました。同時に『歌声喫茶』でも多く取り上げられることになります。民謡以外でも「都ぞ弥生」や「嗚呼玉杯に花うけて」といった各地の旧制高校の寮歌や学生歌など、その地方だけで歌われていた歌が、ヒット曲になるケースも増えました。それは『歌声喫茶』でよく歌われる歌が、どんどんレコード化されるようになったからです。

学生歌といえば松本高校の山の歌として歌われていた「旅の歌」という作品がありました。『歌声喫茶』で人気曲となり、「もずが枯木で」「琵琶湖周航の唄」など人気曲をレコード化していたボニージャックスがお得意のハーモニーをつけて吹き込みました。ところが「旅の歌」がヒットの兆しを見せ始めた頃、この歌の作者という人が現れます。「メロディーは私のものに違いないが、歌詞が全く違う」と発売中止を求めたのです。証拠も残されていました。ボニーがこの歌を原曲である「北帰行」として録音し直しているうちに、小林旭がレコードを制作、B面に収められていた「惜別の唄」とともに、『歌声喫茶』の代表作になるのです。実はこの歌が作られたのは、レコードが発売になる20年ほど前に遡ります。 

昭和15('40)年、当時日中戦争で日本に占領されていた現在の中国・旅順に創立された、旧制旅順高等学校1回生だった作者の宇田博は、町の洋装店の娘と恋仲になりました。それが学校にばれてしまいます。教官は、「この非常時に何ごとか!軟弱ものめが!」と罵倒し、即刻退学処分を言い渡します。

♪北へ帰る旅人ひとり…と、悔しい思いをつづったのが「北帰行」だったのです。寮生の仲間たちにこの歌をガリ版刷りで配り、歌を残して父の住む奉天(現・瀋陽)に帰ることになったのです。敗戦後、旅順は中国に返され当然、旅順高校は解体しました。命をつないだ学生たちは、着の身着のまま故国へ戻ってきました。同時にこの歌も一緒に日本に持ち込まれたのです。歌はひとり歩きして、最終的に松本高校の山の歌として歌われるようになったのです。『歌声喫茶』で松本で歌われる「旅の歌」がもてはやされたことで、この歌の原曲が再生されたのです。「雪山讃歌」もそうでした。これは旧制第三高等学校山岳部の山の歌として歌われていた歌ですが、メロディーは元々アメリカ西部の民謡「いとしのクレメンタイン」です。大正15('26)年、三高山岳部のメンバーは群馬県の鹿沢を訪れていましたが、吹雪に遭い登山は断念、旅館の一室に閉じ込められたままでした。退屈しのぎに彼らは英語教師から教わっていた「クレメンタイン」のメロディーに合わせて、詩をはめていったのです。これが『歌声喫茶』で流行し、ダークダックスのレコードが売れることにより、一般的な歌になっていきました。

歌声喫茶で流れた歌2

『歌声喫茶』全盛期の昭和36('61)年頃になると、「ヒット曲は歌声喫茶から」と呼ばれるほどになりました。この年の『日本レコード大賞』はフランク永井のリバイバル・ソング「君恋し」でしたが、最後まで争ったのがボニージャックスの「北帰行」でした。

スリー・グレイセスはロシア民謡として紹介された「山のロザリア」と「カチューシャ」のカップリングのレコードを大ヒットさせ、ダークダックスはこの年の『紅白歌合戦』で「北上夜曲」を歌っています。ダークが東北での巡演中のこと、大学のOBたちが酒宴を設けてくれました。そこで「この歌はここらでずっと歌われてきた詠み人知らずの歌だが、君たちの力で流行らせてくれないか」とすすめられたのが「北上夜曲」だったのです。

『歌声喫茶』で人気ナンバーワンの曲となり、高城丈二が元々の題名である「北上河原の初恋」として発売、「北上夜曲」の題でダークのほかにマヒナスターズを従えて多摩幸子、菅原都々子、井上ひろしらが歌って競作として大ヒット曲に育て上げました。さらに新東宝、日活、大映の3社が、この歌を題材にそれぞれの映画を作るほどの大ブームとなったのです。

後にこの歌は昭和16('41)年に作成されていたことが判明しました。作詞者は当時の岩手師範学校の生徒で作曲者は青森八戸市の生徒。淡い恋心を描いた短調の三拍子の歌が長く静かに東北地方で歌い継がれていたのでした。

これらは『歌声喫茶』が育てたヒット曲ですが、同じ昭和36('61)年の『レコード大賞』新人奨励賞を受けた仲宗根美樹の「川は流れる」は『歌声喫茶』が生んだヒット曲といえます。

新人の仲宗根は連日連夜、『歌声喫茶』を回って歌唱指導し、歌を広げました。その結果、レコードA面の「雨の花園」をしのいで、B面の「川は流れる」が愛唱され、翌37('62)年にはみごとビッグヒットに育ったのです。この年にはほかに倍賞千恵子の「下町の太陽」、金田星雄、小宮恵子の「幸せを掴んぢゃおう」、ダークダックス「山男の歌」、ボニージャックス「ちいさい秋みつけた」、加えて「おゝブレネリ」「おお牧場は緑」「アルプス一万尺」など、今では童謡としても歌われる外国曲が『歌声喫茶』を通じて全国的な人気曲になりました。

そんな中、ベトナム戦争など絶えない戦いに抵抗するように「ドナ・ドナ」「花はどこへ行った」などアメリカのフォークソングの反戦歌が人々の心をとらえ、日本にもその波が押し寄せます。『歌声喫茶』でもそういった反戦フォークが歌われるようになるのです。「愛する人に歌わせないで」「さとうきび畑」「死んだ男が残したものは」「フランシーヌの場合」などがそうでした。フォークはさらに反戦歌だけにとどまらず、自分たちの思いを綴った「遠い世界へ」「翼をください」らをヒットさせ、それは『歌声喫茶』最後の輝きのページでもありました。

『歌声喫茶』は『フォーク集会』にとって変わられ、"昔うたごえ今フォーク"と新聞の見出しに書き立てられました。あれだけ支持されていた『歌声喫茶』が、ひとつふたつとその灯りを消していったのです。

老舗『ともしび』ほか数軒は細々と経営を続けましたが、昔日の賑わいはありません。しかしそこにはとんだ財産が違った意味で芽ばえていました。みんなで一緒に歌を歌うことをうながす役目のソング・リーダーと呼ばれる人たちに芹洋子、上條恒彦、さとう宗幸らがおり、彼らが歌った「四季の歌」「坊がつる讃歌」「出発の歌」「青葉城恋唄」などがヒット、『歌声喫茶』を再認識させたのでした。

しかし、時代はカラオケ時代に突入、『歌声喫茶』はいつしか過去の産物になっていきました。

でも時代は巡るものです。21世紀を迎えようとするときになり、『歌声喫茶』がまた注目されはじめました。それは、到底ひとりで歌うカラオケでは味わえないみんなで声を合わせて歌う連帯の意識の美しさへの回顧であり新たな発見でもあったのです。そしてその場所から、今、また♪私のお墓の前で…と歌い始める「千の風になって」が生まれ育っているのです。

合田道人 近影
コラム:合田道人
昭和54年、17歳で自作自演のフォークソング「釧路にて」でデビュー。その後もヒットCD-BOXちあきなおみ「ねぇあんた」の監修、倍賞千恵子などのコンサートの構成・演出、(社)日本歌手協会理事に最年少就任など多方面で活躍。平成14年刊行の著書「童謡の謎」シリーズは現在まで60万部突破のベストセラーとなり、『徹子の部屋』など多数の人気番組に取り上げられる。"童謡の謎"をひもときながら進行するコンサートや講演が全国で好評。
童謡の風景(1)
Amazonで購入
童謡の風景(2)
Amazonで購入
童謡の風景(3)
Amazonで購入