/音痴と日本人 安田寛 音楽専門館 アルテスパブリッシング

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第11回 メーソンが日本人の音痴矯正に使った手段とは?

 『小学唱歌集』の謎は思いのほか深い。真実は暗い闇に沈んでいるかのようである。そこにどのように光を当ててゆけばいいのだろうか。

●伊澤がめざした音痴克服

 『小学唱歌集』初編は、目賀田種太郎や伊澤修二を中心とするボストン日本人留学生の音痴克服のポートフォリオだった1--前回 述べたのは、これまで誰も言ったことのない真実である。音楽学者の奥中康人氏は、『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社)のなかで(136頁)、伊澤の歌唱を留学生仲間が嘲笑する場面を紹介している。

 奥中氏はその場面について、「伊澤が唱歌を学んでいて、日本語でも歌えるように試行錯誤していることも、他の留学生たちは知っていた」と書いている。氏のいう「日本語でも歌えるように試行錯誤」とは、これまでみてきたことから明らかなように、まさに音痴克服の努力をさしている。続けて、「正確な日時はわからないが、金子堅太郎は次のように回想している」とし、のちに明治政府で外交官として活躍する金子の言葉を、次のように引用している。

「ある日[伊澤が]我々留学生を招き其唱歌を謡ふて聞かせたれば列席したる学生は皆其幼稚なるに驚き大笑いしたり」

 これは、日本人の音痴を克服するためにメーソンがおこなった実験の一端を語るエピソードにほかならない。この実験でメーソンが使った教科書が『プレパラトリー』であり、その成果が『日本語音楽掛図』となり、目賀田種太郎に託されたこの掛図を伊澤が留学先のボストンから持ち帰り、時の文部次官であった田中不二麿(ふじまろ)に見せておおいに気に入られたことがきっかけとなり、日本の唱歌教育が開始されたのである(第10回 を参照)。これが、闇に一条の光を投げかけることによって明らかになった真実の一端である。

 おもしろいのはこのときの伊澤の態度である。自信満々というより、こんなものを見せて大丈夫か、自分のキャリアに不利になるのではないかと戦々兢々としており、田中に見せるのをかなりためらっている様子がみられる。しかし、現金な男である。田中が気に入ったとみるや、さっそく自分で唱歌を実演してプレゼンテーションをする始末だった。それやこれやの顛末をへて、来日したメーソンも加わって『日本語音楽掛図』が増補改訂され、『小学唱歌集』初編ができあがったのである。

● メーソンのひそかなもくろみ

 さて今回の謎は、目賀田や伊澤を含む七人の日本人相手の音痴克服実験で、メーソンは何に頼ったのか、その手立ては何だったのか、というものである。いうなれば、世紀の難題を解くために、メーソンはどんな鍵を入手したというのだろう。

 ところで前回、『小学唱歌集』初編の第13番の唱歌「見わたせば」について、次のような謎を提示しておいた。

「問題は、第13番である。これだけは、『プレパラトリー』にも『音楽掛図』第2集あるいは『音楽読本』第2集にもない“異物”なのである。[中略]この曲は有名な「むすんでひらいて」である。なぜいきなり整合性をまったく無視して、異物がこんなところに挿入されているのだろうか」

 前回はあとまわしにしたこの謎に、ここで挑戦してみたい。この謎は、メーソンが手にした「鍵」とどう関係するのだろうか。それを考え出すと、「見わたせば(むすんでひらいて)」は讃美歌なのか、それともやはり従来から信じられていたように唱歌なのだろうかという、あいかわらずやっかいな問題がふたたび浮上してくる。


「むすんでひらいて」のメロディによるモルモン教の讃美歌「Lord, Dismiss Us with Thy Blessing」。プロテスタントの讃美歌集ではすたれてしまったが、モルモン教の讃美歌集にはいまでも残っている。

●「見わたせば」の系譜

 まず注目したいのは、『小学唱歌集』に収録される以前に、この歌は「Greenville」という讃美歌名(tune name)で、1876年(明治9)発行の『改正讃美歌』と1877年(明治10)発行の『讃美歌(たたえうた)一』という日本の讃美歌集に収録されていることである。ということは、この曲は日本では唱歌になるまえに讃美歌になったということである。

 流入元のアメリカに目を移すと、唱歌としては、1872年に出版されたJ. アイクバーグ、J. B. シャーランドとメーソンによる『第4音楽読本(The Fourth Music Reader)』(Boston: Ginn and Heath, [1872], 1880, pp.116-17)に掲載されている。ただしこの教科書は、いまの日本でいうと高校生用で、その歌詞は「導きたまえ、偉大なるエホバであるあなた(Guide me, O thou great Jehovah)」である。

 どうも流入元のアメリカでは、この曲は学校唱歌というより讃美歌として流布していた気配が濃厚である。

 これと同じことが、『小学唱歌集』第15番「春のやよひ」や第26番「隅田川」についてもいえる。このように『小学唱歌集』初編には、唱歌ではあるが、むしろ讃美歌として考えたほうがすっきりする曲が、少なからず流入しているのである。

●『小学唱歌集』初編の系譜

 思いのほか複雑な経緯を秘めた編集の結果、できあがっていることが予想される『小学唱歌集』であるが、ここで問題を単純化するために、初編だけにかぎって収録曲の系譜を整理してみる。

 まず、日本で新たに作曲されたことがわかっている曲──つまり、初編の最後に編入されている第31番から第33番の3曲──を除外する。

 次に、これまで述べてきた経緯からみて、当時のドイツの代表的な唱歌教科書でメーソンの教科書の種本となったドイツ人のハインリヒ・クリスティアン・ホーマンの教科書、メーソンの『音楽掛図第2集』、『プレパラトリー』、『日本語音楽掛図』、そして『小学唱歌集』初編という流れが浮かび上がる。これを「唱歌の系譜」とよぶなら、ほぼこの流れに沿っているものも含めると、第1番から第12番、第14番、第17番、第19番、第21番の16曲がこれにあたる。

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『小学唱歌集』初編の「唱歌の系譜」のルーツであるホーマンの唱歌集

 次に、唱歌にも使われてはいるが、おもに讃美歌に使われた曲の系譜を「讃美歌の系譜」とよぶなら、第13番、第15番、第16番、第20番、第23番から第27番、第29番の10曲がこれにあたる。

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『小学唱歌集』初編の系譜

 このように整理してみると、日本の新作と伝承曲とを除けば、まったく異なった2つの系譜から『小学唱歌集』初編ができあがっていることがはっきりしてくる。ほんらいあるべき唱歌の系譜に、明らかにそれとはまったく異質な讃美歌の系譜が混入しているのである。

 これはなぜか?

 以前の著作では、私はメーソンの宣教意図を原因としてあげたが、この連載の「音痴」という視点からみると、また別の考えをとることができる。

 メーソンは日本人の音痴矯正に、キリスト教宣教師の讃美歌教育のノウハウを使った。具体的には、宣教師が現地で讃美歌を教えたときに使った曲を、日本人を相手に試したのである。その結果として、『小学唱歌集』に唱歌の系譜とはまったく異質な讃美歌の系譜が流入することとなったのである。

 次回は、来日前のメーソンと宣教師との接点を探ることにより、彼が日本人の音痴を矯正するために、キリスト教宣教師の讃美歌使用の経験をもちいたという点について明らかにしていきたい。

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安田 寛(やすだ・ひろし)

1948年、山口県生まれ。国立音楽大学声楽科卒、同大学院修士課程で音楽美学を専攻。山口芸術短期大学助教授、弘前大学教育学部教授を経て、2001年より奈良教育大学教育学部教授。19世紀、20世紀の環太平洋地域の音楽文化の変遷について研究中。著書に、『唱歌と十字架』(音楽之友社、1993)、『日韓唱歌の源流』(音楽之友社、1999)、『原典による近代唱歌集成』(編集代表、CD30巻+楽譜+資料、ビクターエンタテイメント、2000)、『唱歌という奇跡 十二の物語』(文藝春秋、2003)、『日本の唱歌と太平洋の讃美歌──唱歌誕生はなぜ奇跡だったのか』(奈良教育大学ブックレット第2号、2008)、『バイエルの謎』(音楽之友社、2012)などがある。2001年に第27回放送文化基金賞番組部門個別分野「音響効果賞」、2005年に第35回日本童謡賞特別賞を受賞。奈良市在住。

つづく