日本音楽への招待 野川美穂子

音楽専門館 アルテスパブリッシング
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第7回 三曲②(箏曲、尺八楽、胡弓楽)

 三味線をもちいる音楽を「三味線楽」あるいは「三味線音楽」という。第6回にとりあげた地歌(じうた)も三味線楽のひとつであるが、今回は、三味線楽の浄瑠璃(じょうるり)を中心に紹介しよう。

浄瑠璃とは

 浄瑠璃とは、いろいろな声をつかって物語を語り聴かせる音楽をいい、語り物の代表である。三味線と結びついた17世紀初頭以降、浄瑠璃は三味線楽の重要な部分を占めることになった。浄瑠璃には、さまざまな種類があり、義太夫節(ぎだゆうぶし)、常磐津節(ときわずぶし)、清元節(きよもとぶし)など、「〇〇節」とよばれる種目のほとんどが浄瑠璃に属している。
 浄瑠璃は、声を担当する太夫(たゆう)と三味線を担当する三味線方(三味線弾き)によって演奏される。浄瑠璃の種目によって、声の出し方、三味線の種類や音色にちがいがあり、種目ごとにそれぞれの専門家が活躍している。
 浄瑠璃は、大きな劇場でも演奏されるし、狭い座敷でも演奏される。舞踊や芝居と結びついていることもある。浄瑠璃に多くの種目があるのは、個性豊かな専門家がつぎつぎに登場し、諸条件にあわせたくふうを積みかさねて、特徴ある音楽を分派させた結果である。
 浄瑠璃を聴くと、最初は、どの種目も同じように聞こえるかもしれない。しかし、慣れてくると、似ているようでちがうそれぞれの味わいがおもしろくなってくる。音楽と物語のコラボレーションが、いろいろな輝きをみせるのである。

浄瑠璃の歴史

 「浄瑠璃」という言葉は、もともとは仏教用語で、宝石の瑠璃(るり)のように美しく清浄なものをさす。これが音楽用語になったのは、「浄瑠璃姫」という娘の物語が大流行したことによる。
 浄瑠璃姫は、浄瑠璃世界(浄土)に住む薬師如来(やくしにょらい)に両親が祈願して生まれた美しい娘で、14歳のときに、ひとつ年上の源義経(みなもとのよしつね)に出会って結ばれた。ふたりの恋の物語は15世紀半ば頃に誕生し、物語の舞台である三河国矢矧(みかわのくにやはぎ)あたりを起点として、東海道沿いに東西にひろまっていった。声で語られる物語を耳で聴いて楽しみ、のちに『浄瑠璃十二段草紙』などの書物が成立すると、文字で読まれるようにもなった。『言継卿記(ときつぐきょうき)』や『時慶卿記(ときよしきょうき)』など、15世紀後半から17世紀に書かれた公家の日記に登場し、そうとうな人気があったらしい。そのために、物語を語り聴かせる音楽のすべてを、物語の内容にかかわらず、一番人気の物語にちなんで「浄瑠璃」とよぶようになったのである。
 初期の浄瑠璃は、扇でリズムをとりながら、あるいは琵琶(びわ)で伴奏しながら語られていた。ところが、江戸時代が始まる頃に三味線と結びつく。当時の三味線は、本土伝来から数十年しかたっていない新進気鋭の楽器である。フレットがないので音高を自由に選べ、音色や強弱の変化もつけやすい三味線の特徴は、どのような声にも対応でき、物語の情景や情感を音楽的に表現するのに、まさにピッタリであったのだろう。
 同じ頃、浄瑠璃は人形芝居(操(あやつ)り芝居)とも結びついた。当時の人形の仕掛けは現在よりもずっと単純であったが、それでも、人形の動きと浄瑠璃が連動し、視覚と聴覚を刺激する芝居のおもしろさに、人々は夢中になるのである。
 人形芝居と浄瑠璃が結びついた芸能は「操り浄瑠璃」「人形浄瑠璃」とよばれ、現在は「文楽(ぶんらく)」ともよぶ。

古浄瑠璃

 人形浄瑠璃の音楽といえば、現在は、義太夫節をさす。しかし、江戸時代初期には、いろいろな種類の浄瑠璃が使われていた。ちょっと煩雑になるが、そのおもな流れを追ってみよう。
 浄瑠璃に三味線を最初にもちいた人物は、16世紀末に活躍した琵琶法師の滝野検校(けんぎょう)と沢住(さわずみ)検校と伝えられている。その弟子には、杉山丹後掾(たんごのじょう)(17世紀初頭に活躍)と薩摩浄雲(さつまじょううん)(1593−?)がおり、ふたりとも京都から江戸に出て、丹後掾は柔らかい芸風、浄雲は勇ましい芸風で活躍した。
 丹後掾の息子は江戸肥前掾(ひぜんのじょう)(17世紀半ばに活躍)といい、父の芸風を受け継ぐ肥前節を語った。いっぽう、浄雲の系統からは、金平(きんぴら)浄瑠璃を語る桜井和泉太夫(いずみだゆう)(17世紀半ばに活躍。のちに丹波少掾と名乗る)や虎屋源太夫(17世紀後半に活躍)が出た。
 このうち金平浄瑠璃は、謀反人を退治するスーパーヒーローの坂田金平(公平)が登場する武勇伝を語り、江戸の人々の爆発的な人気を得たのちに、全国にひろまった。ちなみに坂田金平は、力がつく食べ物という意味をこめた「きんぴらごぼう」の語源になった人物である。その父の坂田金時は、「きんとき豆」の語源となった人物で、幼名は金太郎。鉞(まさかり)をかついで熊にまたがる姿が有名だ。
 金平浄瑠璃を語った虎屋源太夫の門下には、江戸で永閑節(えいかんぶし)を語った虎屋永閑(17世紀後半に活躍)、大坂で播磨節(はりまぶし)を語った井上播磨掾(?−1674)などがいた。この播磨節に柔らかさと繊細さを加えた浄瑠璃に嘉太夫節(かだゆうぶし)があり、京都の宇治加賀掾(かがのじょう)(1635−1711)によって語られた。同じ頃の京都では、角太夫節(かくだゆうぶし)を語る山本角太夫(?−1700)も活躍していた。
 このように江戸時代の初期には、まるで一国一城の主のように、作風と声に特徴をもった浄瑠璃の太夫がつぎつぎに登場した。J-POPにあてはめてイメージしてみれば、「桑田節」「小田節」「桜井節」といった感じだろうか。
 とにもかくにも、多くの太夫が群雄割拠するなか、ひとりの天才が現れる。竹本義太夫(1651−1714)である。爆発的な人気を得た義太夫節は、ほかの浄瑠璃を圧倒してしまう。結果として、義太夫節以外の浄瑠璃は「古浄瑠璃」という名でひとくくりに扱われることになった。

【図1(左)】 竹本義太夫像。東京大学駒場図書館蔵
【図2(右)】 竹本義太夫の墓。義太夫が生まれそだった場所に近い大阪市天王寺区の超願寺にある。野川美穂子撮影

 義太夫節が全盛期を迎えるのは、1730年から50年にかけての時期である。竹本座と豊竹座(とよたけざ)というふたつの劇場が競いあい、かずかずの名作を上演した。
 義太夫が設立した竹本座は道頓堀の西側にあり、地味で重厚な芸風が特徴であった。いっぽう、義太夫門下の豊竹若太夫(わかたゆう)(1681-1764。前名は竹本采女(うねめ)。のちに受領して豊竹越前少掾(えちぜんのしょうじょう))が設立した豊竹座は、道頓堀の東側にあり、はでで技巧的な芸風で人気を得た。全盛期の代表作には、三大名作の《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)》(1746)、《義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)》(1747)、《仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)》(1748)などがある。その人気にあやかろうとした歌舞伎では、これらの作品をすぐに作りかえて上演した。
 ところが18世紀後半になると、回り舞台などの舞台機構を開発して演劇性を高めた歌舞伎におされ、人形浄瑠璃の人気は衰退していった。1760年代には竹本座も豊竹座も道頓堀の劇場を歌舞伎に譲り渡し、小さな芝居小屋での不定期な興業を余儀なくされるのである。しかし、そのような状況のなかでも、《妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)》(1771)、《艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)》(1772)、《新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)》(1780)などの名作が生まれた。また、義太夫節を趣味で稽古する素人がふえ、義太夫節を語る女性の芸人も現れた。大坂から江戸に下った太夫や人形遣いが活躍し、江戸の脚本家による作品も作られた。
 19世紀に入る頃、大坂の高津新地(こうづしんち)に、淡路島(あわじしま)出身の初世植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)(1751−1810)が人形浄瑠璃の小さな芝居小屋をひらく。植村家の小屋は、移転を繰り返すうちに「文楽座」と称して興行するようになり、彦六座(ひころくざ)などの他の劇場と競いあいながら、人形浄瑠璃を支えていった。その後1909年(明治42)、文楽座の経営は植村家から松竹(しょうちく)合名会社(現在の松竹株式会社)に移り、1918年(大正7)になると、文楽座が人形浄瑠璃を上演する唯一の劇場となった。以後、人形浄瑠璃の代名詞として「文楽」が使われることになった。
 現在の文楽の活動は、1963年(昭和38)に設立された財団法人文楽協会にゆだねられており、大阪の国立文楽劇場(1984年開場)と東京の国立劇場小劇場(1966年開場)を活動の拠点としている。最近の文楽は、チケットの入手に苦労するほどのブームである。2003年(平成15)、ユネスコの世界無形遺産(「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」)に登録された文楽は、海外にも人気をひろげつつある。

義太夫節を楽しむ機会

 義太夫節は、文楽、歌舞伎、舞踊、素浄瑠璃(すじょうるり)など、いろいろなかたちで楽しまれてきた。
 このうち文楽は、太夫、三味線、人形遣いの3つの役割による「三業一体」の表現が醍醐味である。
 文楽の舞台では、正面が人形芝居の空間、客席からみて右側の上手(かみて)が義太夫節の演奏場所である「床(ゆか)」となっている。床の中央には「盆(ぼん)」(「文楽回し」)がある。直径9尺(約270㎝)の盆がくるっと回転すると、盆を半分に隔てる衝立(ついたて)を背に、太夫と三味線弾きが姿を現す。演目の途中で太夫と三味線弾きをスムーズに交代させるためのくふうであり、同時に、観客のワクワク感を演出する。
 太夫は、大きな房をぶら下げたりっぱな見台(けんだい)(譜面台)を前に、身を乗りだして、表情豊かに声を出す。三味線は、あるときは太夫にしたがい、あるときは太夫をひっぱって、力強い音を響かせていく。その義太夫節に魂を吹きこまれ、三人遣い*1の人形がまるで生きているかのように動く。人形であることを忘れ、理不尽な運命に翻弄される登場人物の姿に思わず涙してしまうことが少なくない。
 いっぽう、義太夫節は歌舞伎でも使われ、歌舞伎では義太夫節を「竹本」とよぶ。竹本を使う歌舞伎の演目は「丸本物(まるほんもの)」または「義太夫狂言(きょうげん)」といい、人気作が多い。歌舞伎では、役者が登場人物のセリフを担当し、竹本は、物語の情景や登場人物の心情を説明するト書き部分を担当する。三業一体の文楽と役者中心の歌舞伎では演出にちがいがあるので、通常、竹本の専門家が文楽に出演することはない。
 義太夫節は、歌舞伎舞踊や上方舞(かみがたまい)において、舞踊の伴奏音楽(「地(じ)」という)としても使われている。
 これらに対して、芝居や舞踊をともなわず、音楽のみを提供する上演方法が素浄瑠璃である。女性の専門家による「女流義太夫」(略して「女義(じょぎ)」)の活動は、この素浄瑠璃を中心としている。素浄瑠璃では、義太夫節をじっくりと味わうことができる。
 このほか、淡路島や徳島には、義太夫節をもちいた民俗芸能の人形浄瑠璃がある。

*1
三人遣い……文楽の人形は、人形の頭(かしら)と右手を動かす主遣(おもづか)い、左手を動かす左遣い、足を動かす足遣いの3人によって操られている。三人遣いの人形は、1743年(寛保3)初演の《芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)》で始まったといわれている。

作品の種類

 義太夫節の作品は、「時代物(じだいもの)」「世話物(せわもの)」「景事(けいじ・けいごと)」に分けられる。おおざっぱにたとえれば、時代物は現在の時代劇、世話物は現代劇にあたる。景事は、人形の動きや音楽に重きをおいた舞踊劇の作品をいう。
 時代物は、武家や貴族の社会を中心に描いており、江戸時代より前の室町・鎌倉・平安時代などの物語である。江戸時代の武家社会を描くことを幕府から禁じられていたための時代設定であるが、じっさいには、江戸の風俗や仇討(あだう)ち事件にもとづくこともあった。史実におかまいなく脚色して、驚くような設定で歴史上の人物が登場する奇想天外な発想も、時代物の魅力である。時代物は5段構成を基本とし、それぞれの段が、口(くち)・切(きり)、あるいは口(くち)・中(なか)・切(きり)に分かれる。
 いっぽう世話物は、町民の社会を、江戸時代の物語として描いている。じっさいに起きた心中事件をヒントにしていることが多く、切ないほどに思いあう男女や親子の愛情がテーマである。上中下の3巻構成を基本とする。

【図3(左)】 文楽人形(国立劇場所蔵)。時代物《義経千本桜》「渡海屋(とかいや)の段」に登場する渡海屋銀平、じつは平知盛(たいらのとももり)
 八島(やしま)の合戦で死んだはずの知盛は、銀平と名乗って大物浦(だいもつのうら)で船宿を商い、安徳天皇と乳母の典侍局(すけのつぼね)とともに身を隠していた。知盛は、出船した義経一行を襲うが、髪は乱れ、何本もの矢を受け、白装束に血がにじむ瀕死の状態で戻ってくる。みずからの身体に大碇(おおいかり)の綱を巻きつけ、碇を海に投げこんで海中に身を沈める最後の場面は圧巻である。

【図4(右)】 文楽人形(国立劇場所蔵)。世話物《新版歌祭文》「野崎村の段」に登場するお染(そめ)
 野崎村の百姓の養子である久松(ひさまつ)は、大坂の油屋に丁稚奉公(でっちぼうこう)にでて、店の娘のお染と恋仲になる。金のトラブルで故郷に戻された久松に、久作は義理の娘・お光(みつ)との祝言(しゅうげん)をすすめる。久松のあとを追って野崎村にやってきたお染。事情を悟ったお光は身を引いて尼となり、久松とお染は大坂に戻ることになるが、ふたりは心中を決意していた。

音楽的特徴

 《艶容女舞衣》の「酒屋の段」で、「今頃は半七つぁん」と太夫が語り、「チーン」と三味線が入って、「どこにどうしてござろうぞ」と続くお園のクドキ。太夫の語りと三味線による絶妙な緊張感のなかに、夫を思うお園の愛情があふれ出る。義太夫節の演奏は、太夫あっての三味線であり、三味線あっての太夫である。両者の息が緊密に結びついているので、カラオケのように伴奏のみをとりだすことはむずかしい。
 義太夫節の語りの様式を大きく分類すると、「詞(ことば)」と「地合(じあい)」がある。詞は旋律のついていない言葉の部分で、地合は旋律がついている部分である。
 詞には、「序詞(じょことば)」(時代物の冒頭部分の表現)や「詞(ことば)ノリ」(三味線の手にのせてリズミカルに語る表現)を例外として、基本的には三味線の伴奏がない。多くは登場人物のセリフであるが、セリフのすべてを詞にするのではなく、セリフの途中で詞になったり、地合になったりする。セリフに聴きいっていると気がつかないこともあるほどに、詞と地合の交替は自然である。交替部分に、詞と地合との中間的な表現である「色(いろ)」を挿入するなどのくふうがあるからだ。
 地合は、太夫の語りの大部分を占めている。自由リズムの語りには、絶妙な間合いで三味線が入る。拍節的に進行する部分では、語りと三味線が一体になり、場合によってはテンポをあげながら、ぐいぐいと物語を盛りあげていく。
 地合では、類型的な旋律を活用する。場面転換のときに使う「三重(さんじゅう)」、演奏者の交替に使う「オクリ」、涙にくれる場面に使う「スエテ」、悲劇の頂点に使う「オトシ」など、多くの旋律型がある。作品によって表現方法にちがいはあるが、音高やリズムといった輪郭はほぼ同じであるので、聴きなれてくると「あ! これこれ」とわかる。
 旋律型の活用は、日本音楽にはよくみられる特徴である。作曲するさいに便利であるのみならず、聴く側にも大きな力を発揮するくふうといってよい。テレビの『水戸黄門』における印籠のようなもので、来るべきところに来るべき旋律が登場すると、ある種の安堵感につつまれて聴きいることができる。知らない旋律型は聞き流してしまうが、その音楽に精通し、知っている旋律型がふえればふえるほど、おもしろくなっていくしくみでもある。義太夫節の場合、最初におぼえる旋律型は、盆がまわり、登場したばかりの太夫と三味線弾きが演奏する「オクリ」かもしれない。
 義太夫節の特徴で忘れてはならないのは、詞の部分も地合の部分も、基本的には大坂弁の高低アクセントにもとづいているという点である。語り物である義太夫節では、物語の内容をきちんと観客に伝えなくてはならない。義太夫節のほんらいの観客は、大坂の人々であった。そのため、たとえば、詞章の「花」は「は」、「春」は「る」、「色」は「い」、「糸」は「と」、「兜(かぶと)」は「ぶ」に、高い音がつけられている。大坂で生まれた義太夫節を、大坂の人々が聴いて楽しめるように作られているのだ。
 義太夫節の演奏家がたいせつにしている表現方法に、「音遣(おんづか)い」と「風(ふう)」がある。音遣いは、物語の状況や登場人物の心理といった、いわば詞章の行間にあるものを表現する技術である。じっさいには、音と音とのあいだをなめらかにつなぐポルタメント技法を駆使し、表現したい内容におうじて声質をコントロールする。その声質は七色どころではない。もうひとつの風(ふう)というのは、かつての義太夫節にあった劇場による芸風のちがいや、過去の太夫の芸風のちがいに由来する表現様式である。たとえば、竹本座の様式を「西風(にしふう)」、豊竹座の様式を「東風(ひがしふう)」とよぶ。詞章の特定の部分が特定の風と結びつき、太夫から太夫へと、語り継がれてきた。
 こうした義太夫節の多彩な音楽表現を、観客である私たちが一から十まで聴きわけるのはむずかしいかもしれない。しかし、その多彩さが私たちを感動させる豊かな源であることはまちがいない。義太夫節のおもしろさは、巧みな文章でつづられた文学としての物語のすばらしさを、音楽の力によって何倍にもひろげているところにある。

古曲

 一中節(いっちゅうぶし)、河東節(かとうぶし)、宮薗節(みやぞのぶし)、荻江節(おぎえぶし)の4つの三味線楽は、「古曲 こきょく」と総称されている。「古曲」のよび名は1919年(大正8)頃につけられたもので、演奏者や演奏機会が減ってしまったことによる。その状況は現在も変わらないが、「古曲」という言葉から連想しがちな古くさい音楽ではない。淡々と進行する曲が多く、「地味だなあ」と感じる人もいるだろう。しかし、繊細な表現にぜひ耳をかたむけてほしい。
 古曲のうち、一中節、河東節、宮薗節は浄瑠璃であり、語り物に属する。これに対して荻江節は、歌舞伎音楽である長唄(ながうた)から分派したもので、浄瑠璃には含まれず、歌い物である。
 現在の古曲は、三味線も声も、それぞれ2、3人ていどで演奏することが多い。三味線の人数は「挺(ちょう)」、声の担当者の人数は「枚」を単位にして数えるので、「二挺三枚」「三挺三枚」などの編成である。一中節、河東節、宮薗節では声の担当者を「浄瑠璃」とよび、荻江節では「唄方(うたかた)」とよぶ。
 古曲は、音楽のみを鑑賞するのが基本である。江戸時代には劇場で演奏された例があり、現在でも河東節の《助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)》だけは歌舞伎の劇場で奏される。最近は舞踊の伴奏に使うこともある。しかし、古曲はほんらい、それほど広くない場所で、音楽のみを聴くものであった。おもな演奏場所は、江戸時代においては、遊廓(ゆうかく)としてにぎわった吉原(よしわら)の座敷であり、現在は小さなホールをよく使う。古曲の繊細な表現は、狭い空間ではぐくまれたものである。
 明治期以降、東京の花柳界が古曲を支え、演奏者の多くは女性になった。1933年(昭和8)に古曲鑑賞会が発足すると定期的な演奏会が催されるようになり、現在は、1962年に設立された財団法人古曲会が古曲の伝承と普及につとめている。1993年(平成5)には、古曲の4つの種目が国の重要無形文化財(総合認定)となり、一中節保存会、河東節保存会、宮薗節保存会、荻江節保存会が組織された。
 古曲の演奏者には、河東節の芸名と荻江節の芸名の両方をもっている人など、複数の種目で活躍する人が少なくない。また、長唄、常磐津節、清元節、山田流箏曲(そうきょく)といった他の種目を専門としている人もいる。
 現在は、古曲会が催す演奏会が古曲の演奏を聴く貴重な機会になっている。

一中節

 一中節は、初世都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)(1650−1724)によって、京都で語りはじめられた。初期には歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場でも使われたが、叙情性にとみ、基本的には座敷内で演奏された。18世紀後半には上方での伝承がすたれ、その後の伝承の中心は江戸の吉原になる。江戸の浄瑠璃となってからも、上方風の品のよさを残す音楽として愛された。
 一中節の声は、低めで渋い。三味線は中棹(ちゅうざお)をもちい、柔らかく粘りのある音で弾く。声の技法としては、言葉と旋律との中間的な「色詞(いろことば)」をたいせつにし、節尻を長々と伸ばすユリ(別名「ヒビキガナ」)をよく使う。「のーオンーオンノー」とか「めーエーエーエンネー」というように、母音と鼻にぬける音を組み合わせて音を伸ばすのである。
 声にも三味線にも同じような旋律がたびたび登場するので、一中節のやや単調な曲調を皮肉って、「一中節 親類だけに 二段聞き」という川柳が作られたほどであった。「一中節は、演奏者の親類でさえ、2曲も聴けばじゅうぶんだ!」という意味であるが、一中節の素朴で典雅な曲風が好きになってくると、親類でもないのに何曲も聴きたくなる。
 現在の伝承は、都派(みやこは)、菅野派(すがのは)、宇治派(うじは)の3派に分かれている。代表曲には《辰巳の四季(たつみのしき)》《傾城浅間嶽(けいせいあさまがたけ)》がある。

河東節

 河東節は1717年(享保2)、古浄瑠璃の肥前節の系統を受け継ぐ初世江戸太夫河東(十寸見河東(ますみかとう))が語りはじめた江戸の浄瑠璃である。伝承曲には、初世の師、江戸半太夫(はんだゆう)が語った半太夫節から受け継いだ曲も含まれている。18世紀半ば頃までは歌舞伎の舞台でも活用されたが、以後は劇場から離れ、吉原などの座敷で奏された。
 河東節は、格調の高さを持ち味とする。声質は、張りがあり明るい。三味線は細棹(ほそざお)三味線をもちい、歯切れよく弾く。左手の指で弦を弾(はじ)くハジキの奏法を多用する。三味線を弾きながら、ときおり「ハオーー」などと掛け声をかけるのも特徴である。
 もっとも有名な河東節の曲は、《助六所縁江戸桜》だろう。この曲は、歌舞伎十八番の《助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)》(河東節と歌舞伎では文字がちがうので注意!)の舞台で演奏される。渋めの曲が多い河東節のなかで、特例といえる華やかさと艶っぽさをもつが、それでもやはり河東節の代表曲である。「助六名取(なとり)」という慣習がある点でも知られている。
 歌舞伎の上演では、曲の由来を述べる口上(こうじょう)が終わると、朱塗りの格子窓の御簾内(みすうち)に向かって、「河東節御連中(ごれんじゅう)様、どうぞ、お始めくだされましょう」と口上役が声をかける。これを合図に河東節の演奏が始まり、イケメンの助六が花道にさっそうと登場する出端(では)の部分まで続く。「河東節御連中」の大半は、そのときかぎりの河東節の芸名(「助六名取」)を許された素人である。御簾内にいるので顔は見えないが、思いがけない文化人や財界人が出演していることが少なくない。素人でありながら、憧れの役者と同じ歌舞伎の舞台に立つという夢のような時間を経験するのである。市川家が助六を勤める場合のみの演出であるのだが、河東節の華やかな音楽があると、助六のカッコよさもひきたつというものだ。

宮薗節

 宮薗節の始祖は、享保頃(1716−36)に京都で活躍した初世宮古路薗八(みやこじそのはち)である。そのため、かつては「薗八節」ともよばれていた。「宮薗節」という名前は、初世門下の2世薗八が宮薗豊前(ぶぜん)(のちに宮薗鸞鳳軒(らんぽうけん))と名乗ったことに由来している。宮薗節は上方生まれの浄瑠璃であるが、18世紀半ば過ぎには江戸にもひろまった。文政期(1818−30)までは上方でも演奏されていたものの、その後は江戸のみに残り、現在の伝承曲は、鸞鳳軒が作曲した10段(10曲)しかない。
 宮薗節は、一中節よりもさらに渋い。三味線は中棹を使う。
 宮薗節の名曲といえば、「一人来て、二人連れ立つ極楽の、清水寺(きよみずでら)の鐘の声」という名文で始まる《鳥辺山(とりべやま)》であろう。心中を決意した男女の道行(みちゆき)をしんみりと語り聴かせる。

荻江節

 荻江節の開祖は、初世荻江露友(ろゆう)(?−1787)である。もっとも、「荻江節」というよび名は彼の時代にはなく、幕末頃に生まれたものらしい。  初世の露友は長唄の唄方で、歌舞伎に出演したこともあったが、3年ほどで劇場から引退し、吉原の遊廓に活躍の場を移した。左膝を立て、右手の扇で身体を支え、左手を耳にあてて語る自由奔放な姿が絵に描かれている。自由で小粋にアレンジされた座敷芸としての長唄、それが荻江節の出発点であった。  初世以降は、荻江姓を名乗る吉原の男芸者がおもに演奏し、廓で遊ぶ人々を楽しませた。荻江節と長唄とのちがいを明確にしたのは、幕末に活躍した荻江里八(りはち)(?−1867)と推測されている。明治以降の伝承は女性が中心で、河東節と荻江節の両方を演奏する人が多い。  荻江節の現在の伝承曲は23曲(戦後の復曲を含めると25曲)しかない。4世荻江露友が作曲した《深川八景》、地歌から移曲した《八島》などの曲がある。声も三味線もひかえめで、長唄のように鳴物(なりもの)を入れることもない。三味線は細棹を使う。

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コラム

音楽と身分

 江戸時代中期に活躍した儒学者の太宰春台(だざいしゅんだい)は、こんな言葉を残している。

 昔は士君子こそ、学問し歌よみ詩を作り連歌し、或は管絃を玩び、すこし下れる品なれども、琵琶を弾じて平家物語し、筑紫箏、幸若の舞など習ひて楽しみあへりけれ。三線を鳴らし浄瑠璃を語ることは、唯市井の賤しきものゝみなりき。それだに大方、人にかくしてしのびへに習ひしぞかし。今は工人商估の中にても、やゝ富めるものは、学問し詩歌管絃を玩び、少し下れる品なれども、猿楽などを習ひて楽しみとして、浄瑠璃、三線などをば近付けぬ類あり。士君子反りてよき楽しみをしらず、ひたすら浄瑠璃、三線を好みてはれやかなる所にて、おめず憚らず、賤しき所作をして人の玩となる、薄禄の士のみに非らず。諸侯貴人にもこの類多しときけり。

(太宰春台『独語』:『日本随筆大成』第1期第17巻より)

 ここには、日本音楽の種目や楽器に対する一種のランクづけが示されている。
 「管絃」とあるのは雅楽のことで、これが最上ランクである。いっぽう、三味線(「三線」)の伴奏で語る浄瑠璃は、賤(いや)しいランクの音楽である。「昔の武士は、武士という高い身分にふさわしい音楽をたしなんでいたのに、いまは身分は低いがお金のある職人や商人のほうが、ランクを意識した音楽の楽しみ方をしている。武士であるにもかかわらず賤しい浄瑠璃を好む者がいるありさまだ。世の中が乱れていて、けしからん!」と、春台は考えているのだ。
 この春台の音楽観の根底にあるのは、音楽と社会的な身分との関係である。特定の音楽が、特定の身分の支持を得て発展してきた歴史を背景にしている。たとえば、雅楽は天皇家を中心とする公家社会、能楽(猿楽(さるがく))や平家(へいけ)は江戸時代の武家社会の音楽であった。人形浄瑠璃や歌舞伎は、経済力をたくわえた町人社会が生みだした芸能である。愛好者の身分のちがいが、音楽そのものにランクをつけるという偏見につながった。
 何層にも分かれるランクは、町人が愛した音楽のなかにもあった。「河東(かとう)(かみしも)、外記(げき)(はかま)、半太(はんだ)羽織(はおり)に、義太(ぎだ)股引(ももひき)、豊後(ぶんご)可愛いや丸裸」という狂歌がある。浄瑠璃の河東節、外記節、半太夫節、義太夫節、豊後節を、身なりにたとえている。河東節には格調があるのに対して、豊後節には飾り気がないというように、音楽的な特徴を区別したものである。それぞれの音楽のちがいは、愛好者の階層による嗜好のちがいとも結びついていた側面がある。
 音楽と身分との関係は、愛好者の側のみでなく、音楽家の側にもあった。音楽家として活動するための条件が、特定の身分に限定されていた例が少なくない。中世いらい、音楽を含む芸能活動の多くは、被差別層の人々によっておこなわれてきた。近世においても同様で、町民の圧倒的な支持を得た歌舞伎の役者は、その人気にもかかわらず「河原乞食(かわらこじき)」とよばれ、身分は低かった。また、江戸時代の地歌・箏曲や平家を支えていたのは当道座の盲人であり、江戸時代の尺八を吹いたのは普化宗(ふけしゅう)の虚無僧(こむそう)であった。
 音楽と身分との関係は、その音楽の伝承を継続させる基盤になったが、それと同時に、身分をとりまく環境が変化したときには音楽に危機をもたらした。武家社会が崩壊した明治初頭における能楽の混乱、1871年(明治4)の当道座廃止による地歌・箏曲の混乱や平家の衰退など、例はさまざまにある。

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野川美穂子(のがわ・みほこ)

東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程修了。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科にて博士号取得(人文科学博士)。東京藝術大学、東海大学、法政大学、武蔵野音楽大学、国立音楽大学、桐朋学園芸術短期大学などにて、日本音楽史や芸能論の授業を担当。
著書に『地歌における曲種の生成』(第一書房)。共著に『日本の音の文化』(第一書房、1994)『軍記語りと芸能』(汲古書院、2000)、『日本の楽器──新しい楽器学に向けて』(出版芸術社、2003)、『和楽器の魅力』(NHKソフトウェア、2003)、『日本の伝統芸能講座 音楽』(淡交社、2008)など。2001年に(財)清栄会奨励賞、2006年に第23回志田延義賞(日本歌謡学会)を受賞。

つづく