日本音楽への招待 野川美穂子

音楽専門館 アルテスパブリッシング
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第7回 三曲②(箏曲、尺八楽、胡弓楽)

箏曲

 箏曲(そうきょく)とは、箏(こと)*1・*2をもちいる音楽をいう。箏のみで弾くとはかぎらず、三味線、尺八、胡弓(こきゅう)と合奏する曲もある。昨今は器楽曲がふえてきたが、歴史的には声楽曲を中心に発展してきた。
 箏曲でもっとも有名な曲といえば、《六段の調(ろくだんのしらべ)》。作曲者と伝えられる八橋検校(やつはしけんぎょう)(1614−85)は、箏曲の原点である「筑紫箏(つくしごと)」を学んだのち、現代につながる新しい箏曲の歴史をひらいた。八橋検校に始まる箏曲は、江戸時代に大きく発展したことから「近世箏曲」とよばれる。また、貴族社会で楽しまれた雅楽の箏に対し、庶民に愛されたという意味で「俗箏(ぞくそう)」とよばれることもある。
 箏曲では、明治以降も新曲がつぎつぎに作られた。古典曲と同じくらい、あるいは流派によっては古典曲以上に現代曲が演奏されている。箏曲は、ほかの日本音楽よりも「今」を謳歌している種目といえるかもしれない。

*1
箏……「箏」は、音読みで「ソウ」、訓読みで「こと」であるが、日常的には「こと」とよぶ。13本の弦のそれぞれを箏柱(ことじ)にのせ、箏柱の位置で弦の音高を決め、右手の指にはめた爪で弦を鳴らす。
*2
こと……「こと」にあてる漢字には「琴(キン)」と「箏(ソウ)」がある。「琴」の字は、中国では「七弦琴(しちげんきん)」をさす。七弦琴は、横長の胴に7本の弦を張り、徽(き)とよばれる勘所(かんどころ)を左手でおさえ、右手の指で弦をはじいて鳴らす楽器である。いっぽう、日本では、中国から伝えられた「琴」の字を、弦楽器を総称する日本語の「こと」にあててもちいた。「こと」は、和琴、箏、七弦琴のように横長の胴に弦を張る楽器をさすが、「びわのこと」「こきゅうのこと」というように、琵琶(びわ)や胡弓を含むこともある。結果として、七弦琴以外の楽器にも「琴」の字が使われるようになった。混乱をさけるためには、中国でのほんらいの用法にならい、七弦琴の意味で「琴(きん)」をもちい、「箏」「和琴」と区別するのがよい。

箏曲成立の背景

 箏は、奈良時代の初めまでに、雅楽器として中国から伝来した。篳篥(ひちりき)や龍笛(りゅうてき)とともにもちいる合奏楽器であったのだが、平安時代になると、箏のみでも演奏され、雅楽の声楽曲である催馬楽(さいばら)の伴奏にも使われた。そうした貴族の姿は、『源氏物語』などの平安時代の文学に描かれている。また、平安時代末期から鎌倉時代以降の寺院では、雅楽曲に仏教的な内容の詞章をあてはめて歌い、伴奏に箏をもちいることもあった。なかでも《越天楽》の旋律による声楽曲は「越天楽謡物(えてんらくうたいもの)」とよばれ、多くの替え歌が作られた。その替え歌のいくつかは、のちに、筑紫箏や近世箏曲の詞章に使われている。雅楽における声と箏との結びつき、寺院における声楽曲の多様化などを背景に箏曲が成立したと推測できる。

筑紫箏

 筑紫箏は室町時代末期に誕生し、のちには筑紫流箏曲ともよばれた。多くは越天楽謡物から生まれた箏伴奏の声楽曲である。基礎を築いた人物は、幼少時より九州久留米の善導寺で修行を積んだ僧侶の賢順(けんじゅん)。賢順の生没年には諸説あり、1534−1623年とも1547−1636年ともいわれている。彼は、善導寺に伝わる雅楽や越天楽謡物を整理し、明人から学んだ七弦琴も参考にして、新しい箏の音楽を生みだした。《越天楽》の箏に似た旋律を弾きながら歌う曲が多い。賢順はのちに還俗して佐賀に移り住んだため、筑紫箏の伝承は、佐賀藩の藩士や婦人、僧侶、儒者を中心に広まった。残念なことに、筑紫箏の現状は消滅に近い。筑紫箏では、楽箏(雅楽でもちいる箏)よりも細長い爪で弾く。楽器は、賢順のころには、長さも幅も小型であった可能性がある。

近世箏曲

 近世箏曲の祖・八橋検校は、箏のみでなく地歌(じうた)の三味線も演奏し、胡弓の弓を改造した業績でも知られる。江戸にいた賢順門下の法水(ほっすい/ほうすい)に筑紫箏を学んだのち(一説には玄恕(げんじょ)にも師事)、新しい調弦を考案して、箏組歌(ことくみうた)と段物(だんもの)を作曲した。
 八橋検校が考案した箏の調弦の代表が平調子(ひらじょうし)。演奏者からみて遠い弦から順に、ミ・ラ・シ・ド・ミ・ファ・ラ・シ・ド・ミ・ファ・ラ・シの音に調弦する。ミ・ファ・ラ・シ・ドという五音音階にもとづいており、ミ・ファおよびシ・ドの部分に半音を含む。この点が楽箏や筑紫箏の調弦とは大きくことなる。日本音楽の音階には時代的な変遷があり、半音を含む音階は江戸時代初期にはじまる。八橋検校が生きたのは、まさに、半音を含む音階が庶民に浸透しつつあった時代。新しい音階にもとづいて作曲した点に、時代を読む八橋検校の才能が光っている。
 箏曲は、八橋検校以降、当道所属の男性盲人の専門家を中心に伝承された。当道が廃止された明治4年以降に、晴眼者および女性の専門家がふえた状況は地歌と同じである。婦女子を中心とする素人の習い事としての人気は、江戸時代から現在につづいている。
 箏曲には流派があり、生田(いくた)流と山田流が代表である。生田検校(1656−1715)の伝承を受け継ぐ生田流では角爪をもちい、箏にたいして斜めにすわって演奏する。山田検校(1757−1817)の伝承を受け継ぐ山田流では丸爪を使い、箏にたいして真正面にすわって演奏する。

さまざまな曲種

 近世箏曲のレパートリーには「箏組歌」「段物」「地歌系箏曲」「山田流箏曲」「幕末新箏曲」などがある。

①箏組歌

 箏組歌は、三味線組歌と同様、複数の歌を組みあわせて1曲とする。
 たとえば《菜蕗(ふき)》は7歌構成、《梅が枝(うめがえ)》は6歌構成である。特徴は、詞章にも音楽にもみられる形式感。
 詞章は、それぞれの歌が4句にわかれ、1句がさらに上(かみ)の句と下(しも)の句にわかれる。『源氏物語』『伊勢物語』、和歌、漢詩などをとりいれた高雅な内容をうたう。
 音楽的には、各歌の長さを128拍に統一し、上の句と下の句の冒頭を「トンレントンレンテン」というカケ爪ではじめる。各歌の終りには「シャーンシャテンツンシャン」という旋律が登場し、曲の終りをしめくくる旋律にも類型がある。声はメリスマ型で声域が広い。箏組歌を聴いていると、優しく包みこまれるような気分になる。かつては箏曲の基本であったのだが、現在は演奏の機会がへってしまった。

②段物

 段物は複数の段で構成される器楽曲で、各段の長さは104拍が基本。八橋検校の作曲と伝えられる《六段の調》《八段の調》《乱(みだれ)》が有名である。
 このうち《六段の調》は《すががき》、《乱》は《りんぜつ》が原曲と推測されている。《すががき》と《りんぜつ》は、箏、三味線、一節切(ひとよぎり)で演奏された17世紀半ばの流行曲である。こうした経緯に起因して、現代の段物も、箏の独奏にとどまらず、箏の二重奏、三曲合奏など、さまざまな編成の合奏で楽しまれている。
 段物は、ゆっくりとしたテンポから徐々に盛りあがっていく。いろいろな奏法をまじえ、舞うがごとくに指が動いて紡ぎだされる旋律には、器楽曲ならではの華やかさがある。

③地歌系箏曲

 地歌系箏曲は、地歌から作られた箏曲。箏曲の曲種のなかではいちばん曲数が多く、地歌と箏曲に共通するレパートリーである。
 盲人の多くは地歌の三味線と箏の両方を弾くことができたのだから、覚えている三味線の旋律を箏に編曲するのは容易であったにちがいない。編曲の方法には、ほぼ同じ旋律に移し変えるだけの「ベタ付け」とリズムや音高に装飾を加えて変奏する「替手式(かえでしき)」があり、後者による地歌系箏曲は「替手式箏曲」とよばれている。19世紀前半に京都で作られた地歌の手事物(てごともの)の多くは替手式箏曲に編曲され、その編曲に大きな功績をのこした人物に京都の八重崎(やえざき)検校(1776?/85?−1848)がいる。
 たとえば、石川勾当(いしかわこうとう)(19世紀前半に京都で活躍)が作曲した地歌の手事物《八重衣(やえごろも)》は、八重崎検校によって人気を得た曲。難しくて作曲者自身がうまく披露できずに埋もれかけていたが、八重崎検校が箏の旋律を編曲したことにより、合奏曲としてよみがえった。緩急の変化をつけながら、息づまるように三味線と箏の旋律がからみあう手事の面白さは絶品である。

④幕末新箏曲

 幕末新箏曲の代表曲には、京都の光崎(みつざき)検校による《秋風の曲》《五段砧(ごだんぎぬた)》、名古屋の吉沢検校(1808/01−72)による《春の曲》《千鳥(ちどり)の曲》など、箏の美しい響きを堪能できる名曲が多い。これらの曲は、雅楽の箏、箏組歌や段物の様式を意識しており、三味線と箏との華やかな合奏が流行する時代に、箏独自の魅力を開拓しようという意図から作られた。

⑤山田流箏曲

 山田流箏曲は、山田検校と代々の山田流箏曲家によって作られた曲。箏2面と三味線1挺による合奏を基本とする。箏が中心で、三味線は箏にほぼベタ付けである。詞章を分担する「歌い分け」をおこない、声の表現にも重点がおかれている。なかでも山田検校作曲の《葵(あおい)の上》《長恨歌(ちょうごんか)の曲》《熊野(ゆや)》《小督(こごう)の曲》は「四つ物」とよばれ、とくに尊重されている。
 山田検校は、町医者の山田松黒(しょうこく)に生田流の箏曲を学んだが、この町医者の師は長谷富(はせとみ)検校といって、江戸の箏曲を盛りあげるために京都から派遣されてきた人物である。マスメディアが発達した現代とはことなり、江戸時代には文化的な地域差があった。18世紀半ばの江戸の箏曲には大坂や京都ほどの活気がなく、その状況に新風を吹きこんだのが山田検校である。江戸で流行する河東節などの浄瑠璃(じょうるり)をとりいれ、能から摂取した詞章や国学者の作詞を使うなど、詞章の内容にも工夫を加えて、江戸の人びとの趣味にあう新しい箏曲を樹立した。
 山田検校の人気の高さは、式亭三馬(しきていさんば)の『浮世風呂』を読むとわかる。「山坐さんのお唄ひなさる所を初に聴せたいのう。ホンニまあどうしてあのやうな声が出るか」「体が解けるやうに成りますよ。噂におつしやり出しても ぞつといたしますはな」と、娘たちが風呂屋で噂する「山坐さん」とは山田検校のことである。あこがれの姿と声を思い浮かべ、現代っ娘がポーッとなるアイドルと同じようだ。
 山田検校には息子が描いた肖像があり、その肖像に似た銅像が、山田検校の処女作と伝えられる《江の島の曲》ゆかりの江島神社奥津宮(おくつのみや)にある。その姿には、江戸の人びとに慕われた優しさとともに、現在もなお私たちの心に深い感動を与える偉大な作曲者としての威厳が感じられる。

近代以降の箏曲

 明治には箏の高低2部合奏曲が大阪を中心にさかんに作られ、国家や天皇を賛美する詞章が好まれた。これを「明治新曲」という。左手の指で弦をはじく奏法、半音を含まない新調弦を使う曲が多い。代表曲の楯山登(たてやまのぼる)作曲《時鳥(ほととぎす)の曲》は、「ツルシャンもの」ともよばれ、「シャン」の部分で左手の指で重音(和音)を響かせる。
 その後、大正から昭和初期にかけては、宮城道雄(みやぎみちお)を中心とする新日本音楽が展開し(代表曲《春の海》)、伝統にもとづきつつ洋楽を意識した創作がおこなわれた。戦後は洋楽系の作曲者による作品もふえている。13本弦の箏のみでなく、「十七弦」「二十弦」(現在は「二十五弦」に発展)「三十弦」などの改造楽器もさかんに使われている。独奏曲、合奏曲、協奏曲などの多彩な作品があり、楽器の組みあわせ、表現力など多くの点で従来の箏曲の枠を超えている。

【図1】1695年刊『琴曲抄(きんきょくしょう)』(1695年[元禄8]初版、1673年[宝暦13]再版。筆者所蔵)より。右は、「十三絃筑紫琴之図」と記されているが、近世箏曲にもちいる箏の図。1匹の竜にみたてて、竜頭(「りうとう」)、竜角(「りうかく」)、竜尾(「りうび」)などと、各部の名称が書いてある。左は、箏組歌《菜蕗》の歌詞と楽譜。楽譜とはいっても、歌いだしの箏の奏法(カケ爪)を簡単に書いているにすぎない。

尺八楽

 「尺八」の名が、1尺8寸という長さに由来することを知る人は多い。現在の尺八は曲尺(かねじゃく)の1尺8寸(約54.5㎝)を標準とするので、「なるほど」と納得できる。しかし、これは厳密には正しくない。尺八は、唐時代の中国で、唐の尺度の1尺8寸(約43.7㎝)に作られたのが最初であり、曲尺1尺8寸よりも短い楽器であった。日本には奈良時代が始まるころに伝来し、種類も長さもさまざまな尺八を生みだしながら、日本独自の楽器に発展した。尺八は、いまでは国内のみでなく、海外でもよく演奏されている人気の楽器である。

さまざまな尺八

 日本の尺八は、古代尺八、一節切(ひとよぎり)、三節切(みよぎり)、天吹(てんぷく)、普化尺八(ふけしゃくはち)、近代尺八などに分けられる。現在一般に吹かれているのは、江戸時代の普化尺八に若干の改造を加えた楽器である。

①古代尺八、一節切、三節切、天吹、近代尺八

 古代尺八は、奈良時代の初めまでに中国から伝来した雅楽用の楽器で、「雅楽尺八」ともいう。9世紀後半には雅楽に尺八を使う習慣がなくなり、現在は正倉院に8管、法隆寺に1管(現在は東京国立博物館所蔵)の楽器が残るにすぎない。管長は、短いもので34.4㎝、長いもので44.4㎝。指孔は6孔(前面5+背面1)。その後の日本では、近代に考案された多孔(たこう)尺八をのぞけば、5孔(前面4+背面1)の尺八をもちいてきたので、両者の関係がさまざまに推測されている。古代尺八を改造して5孔尺八が誕生したのか、古代尺八とは別ルートで5孔尺八が伝来したのか、よくわかっていない。
 一節切は、竹の節がひとつしかない細身の楽器。竹の中間部分を切りとり、上下を逆にして、根に近いほうから息を吹き入れる。外国人ロアンが中国の宋から伝えたともいうが、伝説の域をでない。14世紀末には吹かれていたらしく、僧侶、武士など、さまざまな階層の人に楽しまれた。とんち話でおなじみの一休禅師、連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの名だたる武将が愛したと伝えられ、彼らにゆかりのある一節切も残っている。17世紀には庶民に広がり花見に興を添えることもあったが、18世紀以降、廃れてしまった。
 三節切は、竹の節が三つ。根竹(竹の根の部分)を利用する普化尺八とはことなり、竹の中間部分で作る。18世紀に急速に衰退して、普化尺八にとって代わられた。
 天吹は、江戸時代には薩摩(さつま)の武士が愛好し、現在は鹿児島県に伝わる楽器。由来はよくわからないが、『日葡(にっぽ)辞書』(1603−04)に名前が紹介されている。
 大正から昭和初期には7孔や9孔の多孔尺八が改造されたが、現在はあまり使われていない。同じく近代の改造楽器であるオークラウロは、尺八にフルートのキーシステムを折衷した構造。1923年(大正12)に、大財閥の大倉喜七郎が考案して話題になったが、現在はわずかな楽器が残るにすぎない。

②普化尺八

 普化尺八は、「虚無僧(こむそう)尺八」ともよばれ、江戸時代には、普化宗の僧侶である虚無僧が吹いた。虚無僧は武家の出身で、尺八を修行の道具としてもちい、護身具としても使ったらしい。編み笠を深くかぶり、尺八を吹きながら托鉢をする姿は、時代劇に登場することもある。
 真竹(まだけ)の根の部分で作り、江戸時代には節を3つとするのが基本であったが、さまざまな節数のものが作られるようになり、現在は7節を標準とする。明治以降は、管の内部に「地(じ)」(漆(うるし)と砥粉(とのこ)を水でといたもの)をぬり、指孔の位置も変えて、ほぼ西洋の平均律に対応する音律になっている。箏や三味線など、ほかの楽器との合奏がさかんになったための改造と推測されている。
 普化宗および普化尺八の歴史には伝説がある。普化宗は臨済宗の一派で、鐸(たく)(手にもって鳴らす大型の鈴)を振って街頭で説法した唐の普化禅師を祖とする。その普化禅師を敬愛する張伯(ちょうはく)は、鐸を使いたいと願ったものの許されず、「虚鐸(きょたく)」と号する縦笛を作って吹いた。時代は宋になり、この張伯の流れをくむ張参(ちょうさん)に学んだのが、日本から留学した法燈国師覚心(ほっとうこくしかくしん)(1207−98)である。覚心は、1254年(建長6)に帰国し、普化宗と尺八を日本に広めた。『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』(1795)に記されるこの説は、現在では、真偽不明の伝説とされている。
 虚無僧の起源は、尺八を吹いて物乞いをした薦僧(こもそう)であり、さらには「ぼろ」とよばれた乞食僧(こつじきそう)にさかのぼるのが真実らしい。17世紀初め、戦乱によって薦僧に身をやつす浪人がふえると、江戸幕府は彼らに社会的地位を与え、統制する策をとる。その政策によって、17世紀半ばに普化宗が成立したのではないか、と推測されている。薦僧は虚無僧に名を変え、なかには幕府の隠密活動にあたる者もいた。
 普化宗は1871年(明治4)に廃止となり、その後の尺八は一般に開放された。江戸時代にはおもてむき禁止されていた三味線や箏との合奏がさかんにおこなわれ、演奏会で披露される芸術音楽としての尺八楽の歩みがはじまった。しかし、いっぽうでは、宗教性にこだわる人びともいる。普化宗はなくなったが、虚無僧姿に身をつつみ、尺八を吹いて行脚(あんぎゃ)する姿を現在でもたまにみかける。
 尺八には多くの流派があり、芸術音楽としての路線を重視する代表的流派に琴古(きんこ)流と都山(とざん)流がある。琴古流の祖は、筑前(ちくぜん)黒田藩士から虚無僧になった初世黒沢琴古(1710−71)。都山流は、1896年(明治29)、初世中尾都山(1876−1956)によって大阪で創始された。

本曲と外曲

 普化尺八のレパートリーは、「本曲」と「外曲」に大別できる。本曲は尺八伝承の基本の曲で尺八のみで演奏する。外曲は、他の種目の曲を尺八用に編曲したもので、地歌の三味線や箏との合奏曲が多い。本曲も外曲も、流派によりことなる。
 琴古流の本曲は、流祖が全国各地の虚無僧寺から集めた曲が基本。ほとんどは独奏曲で、自由リズムで進行する。たとえば《虚空鈴慕(こくうれいぼ)》。瞑想の世界へと沈んでいくような宗教的雰囲気がただよう。《巣鶴鈴慕(そうかくれいぼ)》や《鹿の遠音(とおね)》は、鶴や鹿の鳴き声を模した描写的表現を含むが、やはりなにか神秘的である。
 いっぽう、都山流の本曲は、初世中尾都山が作曲したものが基本。明治に入ってきた洋楽の音楽様式をとりいれており、拍節が明確で、合奏曲が多い。
 外曲も流派によりことなり、琴古流と都山流を比べると、同じ地歌曲からの編曲であっても、都山流のほうがやや変化にとんだ旋律になっている。

尺八の奏法

 尺八の上達に年月が必要だということは「首ふり3年、コロ8年」という言葉で知られている。
 尺八では、指孔の開閉(全開のみでなく、半開もある)に加えて、楽器に息を吹きこむ角度によっても、音高を変えることができる。あごをひいて吹くと音が下がり、これを「メリ」という。あごを上げて吹くと音が高くなり、これを「カリ」という。上下のみでなく、いろいろな方向にあごを振り、変幻自在に音を動かしていく。この修行に3年の月日が必要だというのだ。修行に8年を要する「コロ」は、トリルのように吹く技巧的な奏法。息を激しく吹きこむムラ息など、さまざまな奏法がある。基本的には竹に孔を開けているにすぎない単純な構造の尺八であるが、音色は無限大。多彩な音色にくわえ、静寂にすいこまれるように音が消える瞬間にも魅力がある。
 奏者によっては、ボーボーという薄っぺらな響きで終わってしまうこともある尺八。それだけに、余情ゆたかな尺八の演奏に出会えたときの感動は深い。

【図2】『花街風俗図絵巻』(18世紀前期。たばこと塩の博物館所蔵)より。遊郭の様子が描かれている。左端に、尺八を吹き、編み笠をかぶった2人の虚無僧がいる。中央にいる剃髪の2人は盲人で、左の人物(茶色の着物に柿色の帯)は背中に琵琶を入れた袋を背負い、犬を棒で追いはらっている。

胡弓楽

 胡弓というと、いまは中国の二胡(にこ)を思い浮かべる人が多い。日本で活躍する二胡の奏者が数多くいるからだ。しかし、日本にも弓で弦を摺り鳴らす独自の楽器がある。
 日本の胡弓には1609年(慶長4)の演奏記録があり、江戸時代初期に使われていたことはまちがいない。しかし、いつごろにどのような経緯で登場したのか、その起源は謎につつまれている。外国から伝来した可能性が高く、琉球、中国、南蛮(ボルトガルやスペインをはじめとするヨーロッパ)などの地が故郷ともいうが、明確な決め手はない。
 胴は三味線と似た箱型で両面に皮を張る。棹(さお)が胴をつらぬき、胴の下に突きでた部分を「中子先(なかごさき)」とよぶ。ヴァイオリンのように弓の角度によって弦を選ぶのではなく、弓を動かす方向を一定にたもち、中子先を軸に楽器本体をまわすことによって、擦りたい弦をス(弓にとりつける馬の尾の毛)にあてる。この独特の奏法は、タイやインドネシアなどの東南アジア、そして沖縄の楽器と共通しており、胡弓の伝来経路を推測するひとつのヒントであるように思う。
 胡弓の形には歴史的変遷があり、17世紀の絵画資料には丸胴の胡弓が描かれている。なかには、片面のみに皮を張るものもある(本連載第6回の図1『春秋遊楽図屏風』を参照)。奏法にも変遷があり、東南アジアの現在の胡弓類とおなじように、中子先を床に置いて弾く時代もあった。現在は、中子先を両足のあいだにはさむのが一般的で、専用の台に中子先を差しこんで弾く人もいる。
 弦数は3本と4本のものが現在使われ、このうち4本弦の胡弓の考案者として有名なのが、18世紀半ばに江戸で活躍した初世藤植(ふじうえ・ふじえ)検校である。3本弦の胡弓には、1921年(大正10)頃に宮城道雄が改造した、やや大型の胡弓もある。
 胡弓楽のレパートリーには、尺八と同様に、本曲と外曲がある。本曲で有名なのは《鶴の巣籠(すごもり)》。3本弦の胡弓で弾く名古屋系・大阪系・京都系の伝承曲、4本弦の胡弓で弾く藤植流の伝承曲があり、曲名は同じながら、それぞれの旋律はことなる。
 現在は、残念ながら、胡弓を聴く機会が少ない。胡弓はよく「哀愁がただよう音色」といわれる。それほど大きな音は出ず、細い線をつむぎだすように奏でられるからだろう。その響きは、人の心の奥に沁みこむように柔らかだ。しかし、胡弓の音はそればかりではない。聴く者の鼓動に弦の振動が共振するような、芯の強さが感じられることもある。日本の胡弓の魅力を、もっと多くの人に知ってもらいたいと切に思う。

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コラム

音楽とことわざ

 ことわざや故事のなかには、楽器や音楽の特徴を知らないと意味をつかみにくいものがある。たとえば「琴柱(ことじ)に膠(にかわ)す」。これは中国の『史記』から生まれたもので、日本語のことわざでは「琴」と書くが、原文では「瑟(しつ)」という楽器を例にしている。瑟は、箏と同じように柱(じ)を立てて調弦する中国古代の楽器。弦数は24~5本。膠で柱を胴に接着してしまうと調弦できなくなるので、融通がきかないことのたとえである。瑟に関連した中国起源の有名な表現には「琴瑟(きんしつ)相和(あいわ)す」がある。中国では琴と瑟をいっしょに合奏したので、夫婦や兄弟の仲がよいことをいう。琴には「断琴(だんきん)の交わり(断琴の契(ちぎ)り)」という表現もある。これは、中国・春秋時代の伯牙(はくが)が、自分の琴を理解してくれる親友の鍾子期(しょうしき)の死後、琴の弦を絶ち、ふたたび弾かなかったという故事によるもの。友情がきわめて親密であることを意味する。ちなみに、伯牙と鍾子期は琴の音をつうじてよく理解しあっていたので、親友のことを「知音(ちいん)という。
 日本の楽器や音楽が出てくる表現には「三味線も弾き方」がある。三味線には三味線にふさわしい弾き方があるように、ものを言うときにも状況に応じた言い方があるというたとえ。これに似た「三味線を弾く」は、相手の話をよく聞かず、適当に調子を合わせて応対することをいう。三味線の魅力的な音は人の心をとりこにするので、「三味線と蛸(たこ)は血を狂わす」という表現も生まれた。「三味線は恋の寄せ太鼓」も同様である。「三味太鼓の音が濁(にご)るのは雨の兆(きざし)は日常の知恵。雨が近づいて湿度が高くなると、三味線や太鼓の皮の具合が悪くなり、音が濁るのである。
 楽器や音楽を例にした教訓もいろいろある。たとえば「笛は吹かずと腰に差せ、舞は舞わずと扇を持て」。吹く予定がなくても笛を腰にさしておきなさい、舞を披露する予定がなくても扇を持っておきなさい、日ごろからなにごとも準備が大切という教えである。「打たぬ鐘は鳴らぬ(打たねば鳴らぬ)」は、打たない鐘が鳴らないように、原因なしには結果は出ない、なにもしなければなにごとも起きないという意味。「祭文(さいもん)下手でも貝吹きは上手」は、副業よりも本業が大事であるという教訓。祭文は、法螺貝(ほらがい)を吹きながら、神仏に祈願する文章を歌い唱える芸能で、とうぜんのことながら、法螺貝よりも歌が上手でなくては意味がない。
 楽器や音楽の修行に必要な条件を説く表現もある。「山葵(わさび)と浄瑠璃(じょうるり)は泣いて誉める」は、山葵は涙が出るほど辛いのがよい、浄瑠璃も客を泣かせるくらい上手でなければ誉められないという意味。「尺八は鳴りかけたら半稽古(はんげいこ)は、「首振り三年ころ八年」と同様、尺八の難しさをいったもの。「舞二年太鼓三年笛五年鼓(つづみ)八年謡(うたい)八年」は、それぞれの芸が身につくまでに必要な年数。実際には、2年では一人前に舞えないし、太鼓も3年ではまだまだである。いっぽう歌は、「一声二節三臓(いちこえにふしさんぞう)とあるように、一番に声のよさ、二番めに節回しの巧みさ、三番めに大きな声を出せる内臓の強さがたいせつである。
 直接に出てこないが音楽に関連することわざには、「風が吹けば桶屋(おけや)が儲(もう)かる」がある。風が吹くと砂ぼこりで盲人がふえ、盲人がふえると三味線に張る猫の皮が必要になり、猫が殺されると鼠(ねずみ)がふえ、鼠がふえると桶がかじられるので桶屋が繁昌するという連鎖である。思いがけないところに影響が出ること、または、あてにならないことを期待することをいう。江戸時代の盲人が三味線を弾いたことを知らなければ連鎖をつなげない。びっくりして言葉が出ないことを「二の句が継げない」というが、これは雅楽の声楽曲・朗詠の特徴から生まれた表現。朗詠は、第1句の最後で低音になり、第2句の初めで急に高音にあがるので、慣れないと声を出せないのである。

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野川美穂子(のがわ・みほこ)

東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程修了。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科にて博士号取得(人文科学博士)。東京藝術大学、東海大学、法政大学、武蔵野音楽大学、国立音楽大学、桐朋学園芸術短期大学などにて、日本音楽史や芸能論の授業を担当。
著書に『地歌における曲種の生成』(第一書房)。共著に『日本の音の文化』(第一書房、1994)『軍記語りと芸能』(汲古書院、2000)、『日本の楽器──新しい楽器学に向けて』(出版芸術社、2003)、『和楽器の魅力』(NHKソフトウェア、2003)、『日本の伝統芸能講座 音楽』(淡交社、2008)など。2001年に(財)清栄会奨励賞、2006年に第23回志田延義賞(日本歌謡学会)を受賞。

つづく