

三味線は、日本の楽器のなかでは比較的新しく、本土で使われるようになったのは、今から四百数十年ほど前にすぎない。それにもかかわらず、その存在感は大きい。「日本の楽器といえば三味線!」と考える人は少なくないだろう。
三味線は、地歌、長唄、義太夫節など、数多くの種目でもちいられている。三味線をもちいる種目は「三味線楽」と総称されるが、種目ごとに専門家がいて、もちいる三味線も異なる。
三味線には、材質、胴の大きさ、棹(さお)の太さ、撥(ばち)や駒の形や重さ、糸(弦)の太さなどに多くの種類があり、音色の違いに結びついている。駒の位置、撥を弦にあてる位置・強さ・角度によっても音色が変わり、三味線楽のそれぞれの種目が、個性豊かな音色を引き出している。
三味線楽のレパートリーのほとんどは声楽曲であり、種目ごとに、声にも特徴がある。三味線の種類の豊富さは、理想とする声、演奏場所、三味線とともに合奏する楽器など、さまざまな条件にふさわしい音色をもとめ、人びとが工夫を積みかさねてきた結果である。
三味線は、日本の多くの楽器と同様、もともとは外来楽器である。三味線楽の各種目の特徴を紹介するまえに、まずは三味線の伝来についてふれておくことにしよう。
江戸時代に書かれた書物から、三味線の伝来状況を記すふたつの説を紹介してみる。
抑 日本に三味せむをひき初し事は.文禄のころほひ.石村検校と云びわ法師あり.心たくみにして.器用無双者也.あるとき琉球の島にわたりけるに.かの嶋に小弓といひて.糸三筋にてならす物有.小き弓に馬の尾を弦にかけて引なれば.小弓とは云とぞ.石村これを探りみるに.琵琶をやつしたる物也……(中略)……其後石村京都にかへりて.おなじく琵琶をやつし.此三味線をつくり出せり.
三味線のおこりは永禄年中に琉球国より是をわたす 其時は蛇皮にてはりて二絃なる物也 泉州堺の琵琶法師中小路といひける盲目に人のとらせたりけるを 此盲目よろこびてしらべつゝこゝろみけれど 教をきかざれば音律かなはず 是を心うくおぼえて 長谷の観世音へ詣て 一七日参籠し引やうを祈りしに あらたなる霊夢ありて階をくだる時に 大中小の糸三筋盲目が足にかゝる 是をとり三筋の糸をかけてひくに 無尽の色音出たり それより三絃にきはむる故に三味線としかいふ
『糸竹初心集』は、一節切(ひとよぎり)(尺八の一種)と箏(こと)と三味線の初心者向け独習書で、中村宗三(そうさん)という盲人音楽家の編著による。いっぽうの『色道大鑑』は遊郭にかんする大著で、著者は藤本(畠山)箕山(きざん)という俳人。三味線の歴史については、江戸時代以来、さまざまに論じられてきたが、おおむね、このふたつのどちらかの説にもとづいている。
『糸竹初心集』では、三味線は文禄年間(1592−96)に伝来し、3本の弦を弓で擦り鳴らす「小弓(こきゅう)」から改造されたと説明する。いっぽう、『色道大鏡』では、永禄年間(1558−70)に年代を設定し、蛇皮を張った2本弦の楽器から改造されたと記す。どちらが正しいのかといえば、正直なところ、よくわからない。ふたつの説に共通するのは、琉球の三線(さんしん)から本土の三味線が生まれ、琵琶(びわ)法師が最初に演奏したという点である。
現在の沖縄県である琉球は、江戸時代までは日本とは別の文化と歴史をもつひとつの国であった。琉球の三線(沖縄では「三味線」ともよぶ)は中国から伝来したと推測されるが、その時期ははっきりしない。遅くとも15世紀半ばまでに、歌や舞踊の伴奏にもちいられるようになった。その三線が日本の本土に伝来した時期については、『色道大鑑』の永禄年間説が現在は支持されている。たとえば、三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(1572年)の出陣前夜に、平手甚左衛門(じんざえもん)が「小歌」(小編の流行歌謡)にあわせて三味線を演奏し、それを前田利家が聴いたという話がある。1570年代の三味線の存在を示す伝聞や記述はこのほかにもあり、年代的に矛盾する『糸竹初心集』の文禄年間説は否定されている。
琉球から伝来した楽器に対して、本土ではさまざまな改造が加えられた。改造の状況は、現在の三線と三味線の違い、三味線を描いた古い絵画などから想像するしかないが、その一部を紹介してみよう。
現在の三線と三味線の違いのうち、すぐわかるのは胴に張る皮である。中国や沖縄には、撥弦(はつげん)楽器であれ、擦弦(さつげん)楽器であれ、ニシキ蛇の皮を張るものがよくある。三線にもニシキ蛇の皮が張られているが、沖縄にはニシキ蛇が生息していないので、輸入した皮をもちいてきた。同じように本土でも蛇皮を輸入できたはずであるが、なぜか本土では蛇皮の三味線は定着しなかった。ウロコで表面がザラザラとした皮の触感や見た目に抵抗があったのだろうか。新しい楽器の製造にチャレンジした製作者たちにとって、蛇皮の加工は困難であったのかもしれない。いろいろな理由が考えられるが、やはりなによりも、蛇皮の音色以上に猫皮の音色に魅力を感じたのだろうと推測している。蛇の場合でも皮の質によって音色の調節は可能だろうが、猫皮の場合には、猫の年齢や皮を張る強さなどの加減によって、好みの音色をより繊細に追求できたのではないだろうか。
三味線は三線よりも胴が大きい。そして、三線では指形の爪(撥ともよぶ)で弾く人が多く、本土の三味線では琵琶のように先端の広がった撥で弾く人が多い。これらは、最初に楽器を手にした琵琶法師が、琵琶と同じように楽器を抱きかかえ、琵琶と同じような道具で弾こうとしたがゆえの改造と推測されている。しかし、江戸初期の絵画には先端の広がった撥よりも棒状の撥がよく描かれており、現在でも楊枝(ようじ)のような棒で三線を弾く人がいるので、三味線の撥が本土で生まれたと断定できるわけではない。経緯はわからないものの、日本の本土では、その後、いろいろな形の撥が作られた。
三味線には、ビーンと響く独特の余韻がある。この余韻はサワリとよばれ、3本の弦のうち2本が棹上部の上駒(かみごま)に乗り、残りの1本が棹に軽く触れることによって生まれる。この構造は中国にも沖縄にもない。江戸時代には、楽器の一部に針金を巻きつけてサワリを生み出したこともあり、さまざまに工夫しながら、独特の音色を追いもとめてきた。明治20年代には、ネジでサワリのつき具合を調節する「吾妻(あづま)サワリ」も考案されている。
三味線の胴の内部には綾杉(あやすぎ)とよばれる溝がこまかく彫りこまれ、胴内で音がよく反響するようになっている。これも本土における三味線の改造のひとつと推測でき、一説には、鼓(つづみ)の制作者が三味線を作ったさいに鼓胴の鉋目(かんなめ)(鉋による削りあと)を応用したためといわれている。
三味線の改造は現在にいたるまで継続的におこなわれ、異なるタイプの三味線が並行してもちいられてきた。ちなみに、18世紀半ばに書かれた『浄瑠璃(じょうるり)三味線ひとり稽古』(1757・宝暦7)には、「上留り三絃(じょうるりさみせん)」と「歌三味線(うたざみせん)」の2種類の三味線が紹介され、棹の太さ、撥や駒の形が違うとの説明がある。「上留り三絃」は義太夫三味線、「歌三味線」は地歌三味線をさし、このころすでに、種目による三味線の違いが意識されていたのだ。
現在の三味線は、一般的には「太棹(ふとざお)」「中棹(ちゅうざお)」「細棹(ほそざお)」に分類されている。太棹は義太夫節、浪花(なにわ)節、津軽三味線、中棹は地歌、常磐津(ときわづ)節、清元節、細棹は長唄などに使う。これに加え、「極(ごく)細棹」とでもよぶべき三味線もあり(地歌の柳川(やながわ)流でもちいる三味線)、これが初期の三味線にもっとも近いと推測されている。
外来の新しい楽器として人びとを魅了した三味線。エレキ・ギターが日本で演奏されたときの驚きとそれに熱狂した人びとの様子を私は噂でしか知らないが、おそらく三味線も同じようなインパクトで受けとめられたにちがいない。現在知られている最古の三味線は、豊臣秀吉が淀君にプレゼントしたと伝えられる慶長2年(1597)制作の楽器である。鶴や松の美しい蒔絵(まきえ)がほどこされたその楽器を手にして、淀君はどのように喜んだのだろうか。また、元和年間(1615−24)の大坂船場のゴミ溜めの遺跡からは、ミニチュアの三味線が出土している。そして、屏風(びょうぶ)絵をはじめとする江戸初期の絵画には、花見を楽しみながら、三味線や箏の合奏に興ずる様子がさまざまに描かれている。伝来から100年もたたないうちに、三味線は急速に社会に普及し、庶民の生活に欠かせない楽器となった。同時に、演奏場所、演奏者など、三味線をもちいる環境が多様化し、もとめる音色におうじた改造が重ねられたのである。
三味線を最初にさわった琵琶法師は、「地歌」*1とよばれる三味線楽を生み出した。この地歌は、「三曲」のひとつでもある。「三曲」とは、地歌、箏曲、尺八楽、胡弓楽の総称である。これらの種目では、三味線・箏・胡弓という編成の合奏、三味線・箏・尺八という編成の合奏をおこなうことがある。そもそも「三曲」は、そうした3種類の楽器の合奏を意味する言葉であった。現在は、合奏のみでなく、種目の総称としても使う。以下、三曲の各種目について紹介していこう。
地歌は上方で生まれた三味線楽である。ほとんどは声楽曲で、歌いながら三味線を弾く。箏、尺八、胡弓を加えた合奏もおこなう。江戸時代の地歌は、専門家である男性盲人を中心に伝承されており、同時に、婦女子を中心とする素人のお稽古事の対象としても人気が高かった。男性盲人は、当道(とうどう)という盲人の職能団体に所属するマルチの音楽家で、地歌のみでなく、平家琵琶、箏曲の専門家でもあった。当道には階級制度があり、最高位が「検校(けんぎょう)」、つづいて「別当(べっとう)」「勾当(こうとう)」「座頭」と続く。地歌の作曲者に「○○検校」「○○勾当」といった名前が多いのは、地歌の専門家が当道の盲人であったことによる。この当道は明治4年(1871)に廃止になったため、明治以降は、晴眼者の専門家がふえた。また、女性の専門家も現在は多く活躍している。
地歌には、柳川流と野川流がある。柳川流は京都で生まれ、現在は京都の一部の人が伝承している。棹が細い「柳川三味線」(「京三味線」とも)を、先端部のヒラキが狭く、全体的に厚みのない撥で弾く。いっぽう、野川流は大阪で生まれたが、明治以降は全国に広まっている。野川流の三味線は「地歌三味線」とよばれ、ヒラキが大きく、先端部で急に薄くなる撥で弾く。
地歌のレパートリーは、「三味線組歌(くみうた)」「長歌物(ながうたもの)」「端歌物(はうたもの)」「手事物(てごともの)」「浄瑠璃物(じょうるりもの)」「作物(さくもの)」「芝居歌物(しばいうたもの)」「謡い物(うたいもの)」などの曲種に分類されている。「長歌物」は「長歌」、「端歌物」は「端歌」ともいう。
三味線組歌と長歌物は、地歌の伝承の規範曲であり、専門家になるために習うべき曲であった。しかし、どちらも現在は状況が変わっている。三味線組歌の現在の伝承者はかぎられ、演奏会で聴く機会はきわめて少ない。長歌物も多くは絶えてしまい、現在に伝わる曲数は往時の半分にみたない。
三味線組歌は、三味線のために作られた声楽曲の最初である。組歌の名のとおり、いくつかの歌を組み合わせて1曲とする。詞章には、江戸初期前後の流行歌や踊り歌の詞章が活用されている。三味線組歌には、教習の順序におうじて、「表組(おもてぐみ)」「破手組(はでぐみ)」「裏組」「中組(なかぐみ)」「奥組」といった分類がある。
三味線組歌の第1作は表組の《琉球組》、作曲者は石村検校(?~1642)と伝えられている。石村検校は、本土で最初に三味線を弾いた人物として前出の『糸竹初心集』に登場した盲人。《琉球組》の三味線の旋律には、「テレントン」と聞こえる音型がなんども出てくる。この「テレントン」は表組のどの曲にも出てくるので、表組は別名「テレントン物(もの)」とよばれる。いっぽう破手組になると、ハジキ・ウチ・スリなどの三味線の奏法が多用され、その名のとおり、表組を破格にしたはでな曲調になる。とはいえ、三味線組歌全般に共通する印象として、「どこを弾いているか混乱しそう」と心配に思うほど、同じような旋律がひんぱんに出てくる。そのため、のちに成立した他の曲種にくらべると単調という印象がないとはいえない。しかし、古風な味わいは独特である。
長歌物は、バラバラな内容の詞章をよせあつめた三味線組歌とは異なり、詞章全体に統一した内容がある。たとえば《桜尽し(さくらづくし)》は桜の名前をつぎつぎにつづる。音楽的特徴は曲によりさまざまだが、三味線組歌にくらべると、三味線の旋律が歌によりそうように進行する。
端歌物と手事物は、地歌らしい音楽性に富む。よく弾かれている人気の曲種である。
端歌物は短編の声楽曲。軽妙な曲もあるが、多くは叙情的である。有名な曲に、大坂の峰崎(みねざき)勾当(18世紀後半に活躍)が作曲した《雪》がある。今は出家して穏やかな心で暮らすが、かつては鐘の音を遠くに聞きながら、つれない恋人を待ちつづけた冬の夜もあったと、せつない女心を歌う。メリスマ的に声を引きのばす、しっとりとした声と、ひと撥ひと撥の余韻をたいせつに演奏する三味線は、地歌の特徴をもっともよく表している。ちなみに曲名の発音は、大阪弁にしたがって、「ゆき」の「ゆ」に高いアクセントをおく。ほかの地歌の曲名は現在は標準語のアクセントになっているので、面白い慣習である。「これぞ地歌!」と特別な思いで伝えてきたことのあらわれであろう。端歌物は、地歌にあわせて舞う「地歌舞(地唄舞)」にも、よく使われる。
手事物は、曲の途中に、「手事」とよばれる長い間奏部分を含む曲。大坂で作られた手事物には峰崎勾当作曲の《越後獅子(えちごじし)》《残月(ざんげつ)》、京都で作られた手事物には松浦検校(?~1824)の《四季の眺(ながめ)》《宇治巡り》、菊岡検校(1792~1847)の《夕顔》《笹の露(ささのつゆ)》、石川勾当の《八重衣(やえごろも)》などがある。
手事物は、声楽曲と器楽曲の両方の魅力をもつ。歌の部分では端歌物につうじる叙情的な味わいがあり、手事の部分では器楽的な合奏の魅力が全開になる。手事の多くには「掛け合い」が登場する。掛け合いは、同じような旋律を順番に演奏するもので、たとえばチリチリチンと三味線が弾けば、ツルツルテンと箏が応酬する。ノリのよいやりとりは、聴いていて気持ちがよい。手事における三味線と箏の合奏は、つかず離れず絡み合っていく。西洋の合奏に慣れ親しんだ耳には「三味線も箏も同じ旋律を弾いている!」と感じられるかもしれないが、音色も奏法も違うふたつの楽器が、曲の終わりに向かってテンポをあげつつ絡み合っていく妙は、ときに息をとめて聴き入ってしまうほどである。
浄瑠璃物、作物、芝居歌物、謡い物は、地歌以外の種目と関連する曲種である。
浄瑠璃物は、「浄瑠璃」と総称される三味線楽のレパートリーを地歌にとりこんで伝えている曲。17世紀末から18世紀初めに江戸で語られた半太夫節(はんだゆうぶし)と永閑節(えいかんぶし)、18世紀前半に大坂で語られた繁太夫節(しげたゆうぶし)などの浄瑠璃に由来する曲が大半。端歌物や手事物には少ない自由リズムの部分があったり、言葉に近い発声が使われたり、浄瑠璃に特徴的な三味線の旋律型が反復されるなど、もとになった浄瑠璃の音楽性が残っている。
作物の多くは滑稽な内容の詞章をもちい、音楽的には浄瑠璃の様式による。たくさんの鼠たちが台所を荒らしまわり、最後には赤まだらの大猫から逃げる様子を、擬人的なストーリーに仕立てた《荒れ鼠》などの曲がある。作物は、盲人たちが宴席で余興的に作曲し演奏した曲と推測されている。芝居歌物には、元禄時代を中心とする京坂の歌舞伎芝居で使われた曲、歌舞伎の関係者が作詞作曲した曲などが含まれている。謡い物は、詞章の題材を能から採用した曲であり、《道成寺(どうじょうじ)》《八島(やしま)》などがある。


音楽を題材にした美術をみつけると楽しい。絵空事の場合が少なくないから100パーセント実在のものではないが、タイムスリップして、過去の音の世界に飛びこむことができる。
たとえば奏楽埴輪(はにわ)。コトを奏で、太鼓を打つ姿に、いにしえの人はどのような響きと思いをたくしたのだろう。東大寺の金銅八角燈籠(こんどうはっかくどうろう)の火袋(ひぶくろ)には、しなやかな姿で笙(しょう)、横笛(おうてき)、銅跋(どうばつ)、尺八を奏でる音声菩薩(おんじょうぼさつ)が透かし彫りされている。平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の雲中供養菩薩(うんちゅうくようぼさつ)もまた、鼓、笙、横笛、コト、琵琶、縦笛など、さまざまな楽器を奏で、極楽浄土へと導いてくれる。
絵画では『源氏物語絵巻』。笛を吹く夕霧、琵琶を弾く匂宮(におうのみや)、箏と琵琶に興ずる姫君たち。音楽とともに生きた平安貴族の雅な音の世界がある。にぎやかに音が聴こえるのは、近世初期の風俗図屏風。『洛中洛外図』をはじめ、沿道をゆきかう人びとのなかには琵琶法師などの芸能者がまじり、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋には多くの人びとが集まって身をのりだしている。桜の下で歌い踊り、三味線や鼓、箏の音に興ずる人びとを描くものも多い。浮世絵にも、江戸時代の人びとが楽しんだ多くの楽器が描かれている。歌舞伎関連のものは数知れない。楽器は文様化され、調度品や着物の装飾にもなった。秀吉と北政所(きたのまんどころ)を祀る高台寺の霊屋(おたまや)の須弥壇(しゅみだん)には、鼓、笛、琵琶などの蒔絵がある。
江戸時代には武家を中心に能が広く普及したので、能の物語を文様とする着物も作られた。謡と囃子(はやし)で繰り広げられる能の世界を身にまとう、といったところである。


東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程修了。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科にて博士号取得(人文科学博士)。東京藝術大学、東海大学、法政大学、武蔵野音楽大学、国立音楽大学、桐朋学園芸術短期大学などにて、日本音楽史や芸能論の授業を担当。
著書に『地歌における曲種の生成』(第一書房)。共著に『日本の音の文化』(第一書房、1994)『軍記語りと芸能』(汲古書院、2000)、『日本の楽器──新しい楽器学に向けて』(出版芸術社、2003)、『和楽器の魅力』(NHKソフトウェア、2003)、『日本の伝統芸能講座 音楽』(淡交社、2008)など。2001年に(財)清栄会奨励賞、2006年に第23回志田延義賞(日本歌謡学会)を受賞。